<<< 回顧シリーズ>>>

#9−ヨット2・マリーナ遍歴  030805〜031103

 

∞∞∞∞∞横浜市民ヨットハーバー∞∞∞∞∞∞∞∞∞030805

小中山を離れ豊橋市へ、そして東京へ移った私は漁船と縁が切れた。

船への渇きをうめたのは貸しボートだった。 池や川で、行楽地で、貸しボートを見たら乗っていた。 たいてい一人で乗って、だれかれなく競走を挑んで負かしたから嫌われた。
ボート競走と、「パッチン」といって2人で向き合って立ち、お互いの両手の掌を打 ち合わせて後ろに倒れるか足が動くと負けの遊びが好きで強かった。
中学と高校でサッカーをやったが、どちらもコーチもいないいい加減な部だった。今 の中高生を100としたら2か3のレベルだろう。高校のサッカー部は上級生が豊橋市の番長だった。

入った大学(一橋大学)はボートが校技だった。 入学早々新入生歓迎のボートレースがあってナックルフォアを漕がせてもらった。 ボート部こそが最大の部であり、花形だった。
しかしボート部には入らなかった。
私にとって船は用のための手段であり、漕ぐこと自体が目的であるような部活動は馴 染めなかった。 そもそも座席に座って前の選手の背中だけを見てひたすら漕ぎ、2000メートル漕 ぎ終わったところで気を失う(ローアウトする)のが理想だなんて馬鹿げた競技だと 思った。
もちろんボート部員の友人はまわりに多くいたし、「オリンポスの果実」(田中英光 ━ロス・オリンピックに出場した早稲田のボート選手で無頼派の作家となり、太宰治 の墓の前で自殺した)なんか読んだりしていたが、自分は相変わらず貸しボート派で あった。

1956年大学3年、当時本牧にあった横浜市民ヨットハーバーの日大艇庫で行われ たヨットの講習会に参加した。3日間の講習であった。
初めて船を動かす技術を学んだ。自分の舵取りとシート捌きで艇が水の上を滑り、風 が耳を切った。漕ぐのとはまったく違う世界だった。海の上で、風を得て、ヨットに 乗った自分は空を舞うが如く感じた。
この時セーリングの技術を学んだことを我が生涯の幸せとして、今でも天に感謝して いる。

講習での使用艇はA級デインギーといって、今ではクラシックというかレトロの世界 の艇種だ。
長さ3.6メートル。クリンカー張り(鎧張り、そうナックルフォアのような)で一 枚帆。乗員は1〜2名。 マストはバウ(舳先)ぎりぎりに立っていて、ブーム(帆桁)が長く、タック(方向 転換)の度にガフを風下に入れ替えた。 セールは木綿のキャンバス地で、厚く重く扱い難かった。
今ヨット界でA級デインギー育ちというと、T型フォードとか戦前のダットサンで自 動車運転を覚えた人種のように見られる。

と思っていたら、なんと現在A級デインギーの愛好会があって毎年全日本A級選手権 大会が開かれ、30数艇が参加するという。びっくりである。そこでは50歳代は鼻 たれ小僧だそうだ。 http://sbbs-home.hp.infoseek.co.jp/index.html#P0 


∞∞∞岩井、保田海岸∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞030808

今朝7時前に電話が鳴り、いきなり「今門脇灯台の前を走ってる。窓から手を出 して振れ!」と喚く。横浜のKさんだ。
残念ながら我が家の窓は海に面していない。
どうせ台風に降り込められて下田に数日滞在するだろう。あそこは漁船も集まるから 一旦入ったら台風が過ぎるまで出られないのだ。十重二十重にロープで囲まれる。弁 当と酒を提げて見舞いに行ってやろう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
貸しボートは貸しヨットに変わった。
海水浴場の片隅に数は多くないが貸しヨットがあったのである。なくならないうちに と朝早く借りて1日乗っていた。
乗って何をするか。相手がいないからレースは出来ない。まだ貸しヨットで遠出(例 えば伊豆大島)するほどの勇気はなかった。ただぶらぶらと乗って、女の子を拾っ て、それだけのことだった。飽きもせず毎週乗っていた。
海で拾った女の子と翌週銀座で会う。こちらの勤務地が銀座だから。そして95 %が阿呆らしかった。続けて会おうと思った子は数人もいたかどうか。

行くのはたいてい内房の保田か岩井海岸だった。そこに出光の寮があった。品川から 京浜急行で九里浜まで行き、フェリーで金谷にわたる。そして電車。誰もマイカーな んて持っていない時代であった。
土曜日も仕事はあり、午後から休みなのだった。着いたらもう夕方である。当時は身 軽だったから予約なんかなくてもどこでも寝られると思っていた。

26歳の秋、「今年の7,8月は8回海に出たなあ。」と感慨をもって振り返ったこ とを覚えている。その頃でも毎週欠かさず海に行くのは大変だったのだ。
真黒だったと思う。冬はラグビーで頬擦れ。夏は海で真黒。仕事人の顔ではなかっ た。

鎌倉とか江ノ島とか、所謂湘南には行ったことがない。
そもそもヨット乗りの正統は海洋少年団とかでコーチを受け、文部省傘下のヨッ ト協会につながる学連でインターハイ、インカレと進んでくる連中である。 さもなくば父親がヨットを所有している階級の子弟だ。
根っからの貸しヨット育ちの小生に湘南の海は眩し過ぎた。
< 君がため瀟湘湖南のをとめらはわれと遊ばずなりにけるかな━吉井勇>

29歳で結婚。G−huntの目的がなくなり、ゴルフも始まってヨット遊 びは下火となった。


∞∞∞∞稲毛マリン・霞ヶ浦ヨットハーバー・館山泊地∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞030828

1971年のことだ。当時西千葉に住んでいた僕は、稲毛の海岸の道端でヨットを自 作しているマリンショップを見掛けた。今のような埋立ての進んでいない昔の海岸線 の街道筋である。へえこんなところに、と思って寄ったのが稲毛マリーンだった。店
主の山田一也君はまだ千葉大学工学部の学生だった。学生で店を出すのだからよほどヨット気違いだったのだろうし、親もあの辺の地主だった。

飛び込んで1ヵ月後に当時新鋭艇だったリンフォース工業のブルーウオーター21を 発注し,12月に進水式を行った。僕の初めてのクルーザー購入であru。忘れもしな い140万円だった。

彼の世話で最初霞ヶ浦の京成マリーナに置き、翌年には館山の自衛隊岸壁に移した。
一緒によく狭い21フィート艇に泊まったものだ。キャビン内は腰掛けても頭を下げ ていなければならなかった。嬉しくてそんな中でランタンを灯して麻雀をした。

ほどなく彼は館山近くに土地を見付け造船所を始めた。
そして横山晃氏の知遇を得て建造・発売したのが<ノラ>シリーズだった。どれほど売れ たのかは知らないが、それなりの評判を得た艇だ。しかし石油ショック後のマリ ン退潮で苦労したようだ。
ノラを売り出して数年後、彼が交通事故で死んだと聞いた。いい男は早く死ぬ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これが最初のクルーザー購入の経緯である。
当時私は出光千葉支店の営業課長であった。36才であった。 ちょうど新日鉄君津が建設の真最中で現場はまさに修羅場、部下の車が君津構内で ひっくり返って前歯を折ったりした。

1971年がどういう年だったか。
堀江謙一マーメイド号の太平洋横断が62年である。 そして64−67年鹿島郁夫のコラーサ号大西洋・太平洋横断。牛島龍介が69年に サナトス号で太平洋横断、続いて銀狐号で世界一周。栗原景太郎白鴎号の69-70 年世界一周。松下紀生秋津洲の世界一周途中での仲間割れ事件が70年。青木洋のわ ずか6.4メートル信天翁による世界一周が71年。
そういう時代であった。
要するに時流の影響を受けたのである。我輩はそういう男である。この回顧シリーズ を書いていてつくづくそう思う。
なんでも流行りものに手を出す。ちょっと早めに手を出す。気軽に手を出す。


それにしてもこの時代のヨット乗りは1人づつが艇名とともに思い出される。英雄であっ た。彼らの書いた航海記をむさぼり読んだものだ。
今はどうか。常時数十人が世界の海を回っているであろう。帰ってもローカル紙に載ったり載らなかったりだ。

60年代後半からFRPのプロダクション艇がアメリカで出始めた。
ブルーウオーター21は日本で最初のFRPプロダクションボートでなかったか。ピ カピカに輝いて見えた。 名前を「ドーラ」と名付けた。
140万円を1人では買いきれず、4人で買った。寺崎毅、高橋敏行、稲葉豊の3君 である。
資金の分担もさることながら、労力の分担も大事な目的だった。とても1人で動かす 自信がなかったし、今ほど省力化の装置もなかった。
そもそも私にとって初めてのクルーザーであった。貸しヨットで育った私は「ドー ラ」を買うまで一度もクルーザー というものに乗ったことがなかったのである。
私はクルー経験のないクルーザー乗りである。いきなりスキッパーである。

霞ヶ浦は内海である。山田君が京成霞ヶ浦ヨットハーバーを勧めたのは我々の腕前を よほど心もとなく思ったのであろう。
それでも12月に進水して翌年5月には利根川を下って太平洋に出るクルージングに 出かけた。途中橋のために何度かマストを倒す航海である。今思えば相当の冒険航海 で、よくも出かけたものだと思う。素人共同オーナー4人だけでの航海だった。外川の漁港に 泊まり、てんでんしのぎから外海に出て、太平洋の水で顔を洗って早々に逃げ帰った ことを思い出す。

やはり内海では飽き足らず、その年の秋に係留場所を館山に移した。
館山の海上自衛隊のフェンスの中に防波堤が出ていて、どうやらそれは自衛隊の施設 ではないのであった。 そこに自衛隊の士官Hさんが自艇を繋ぎ、つれて4艇ほどが繋がれていた。ドーラが
6艇目であった。
フェンスを潜って入り込むのだから不法係留である。防波堤に細工をすることは 出来ない。防波堤にチェーンを掛けて両サイドに重しをつけ、そこから舫いをとるのであった。何十 メートルもの重いチェーンを運ぶのはその当時の我々にも腰に応える重労働だった。 沖側にはトリプルアンカーを入れた。かくして自主泊地を作ったのであった。
館山に腰を据えて草レースに出始めた。大島クルーズが見えてきた。はらはらどきど きで計画を作った。その頃Hさんは伊豆西海岸を目指していた。我々には伊豆はまだ遥かに 遠かった。
それにしても気象条件は厳しく、フジツボの付くこと日本一という泊地であった。 ヨットが港に求める用役は水、ゴミ捨て場、トイレである。館山泊地にはこのどれも なかった。
数年前行ってみたらその防波堤に40艇ほど繋がれていた。苦労が偲ばれる。

ヨット乗りの心情は常にワンモアフィートと言われる。船外機の21フィート艇はい かにも小さかった。
あの頃、デイーゼルを積んだ24フィート艇がどんなに羨ましかったか。どんなに憧 れたか。ちなみにブルーウオーター24は210万円であった。
この頃の快適マリーナおよびボートサイズへの渇仰が後年の三河御津マリーナ建設に つ ながったと思う。


〜〜〜〜知多武豊・KYC〜〜〜〜〜〜〜〜030913

1973年(昭48)7月、愛知製油所建設事務所に転勤になった。
その年の10月、第1次石油ショックに襲われる。10月、起工式を行う。 日本の石油業界誕生以来初めての経験であり、建設を続行すべきか中断すべきか延期 すべきか、判断できる人間は誰もいなかった。

私の仕事は建設にかかわる渉外(役所、地元、漁組)であった。
役所は基本的に建設推進であり、問題は特に漁組だった。製油所の桟橋や伊勢湾シー バースなど海に関わる建設許可には漁組の同意取得が不可欠だった。私にはそんな仕 事が面白かった。
当時出光愛知の現地総責任者N所長は実に清廉潔白、会社に忠義な人で、漁組に対し ても筋の通らない金は絶対に出すことをしなかった。(同じ出光でも別の建設現場で は電力会社さながらに金を費って自分の成績を挙げようとする所長もいたのであ る。)
後年、私が三河御津マリーナ建設にあたり対策費をまったく費わなかったのはN所長の感化である。

転勤とほぼ同時に知多半島武豊をホームポートとするKYC(衣浦ヨットクラブ)に入会した。
KYCは武豊港の一角を海上保安部の黙認の下に自主管理の泊地とし、50艇200名ほどで クラブを運営していた。泊地の運営、毎月のレース開催、機関紙発行など活発に活動 していた。
当然のことながら(日本のプレジャーボート泊地は極端に逼迫し、長らく移動の自由 は事実上なかったのである)ドーラ号を移すことは出来ず、紹介する人があってオリ オン号(ブリスク25)のクルーとなった。

オリオン号のオーナーのKさんはまだ若く経験も浅く、38才の私が自然にスキッ パー(船長)となり、ほかにクルーもいないままに3年間ほとんど自分の艇のように して乗り回した。ほぼ毎週乗っていた。
ブリスク25は丹羽さんのチタが作った艇だが、鈍重であまり売れなかった。しかし クルージングには安心出来る艇だった。レースに勝ったのは強風下の1回だけだっ た。
三河湾、伊勢湾、英虞湾、五ヶ所湾がフィールドだった。佐久島、日間賀島、篠島、 神島、答志島など島巡りも懐かしい。

話は逸れるが、KYCを創設したのはSさんという地元のヨット先覚者の建築設計士 だった。この人がヨット乗りをまとめ、泊地をまとめ、KYCを育てた。しかし71 年、香港で行われたチャイナシーレースに参加して帰港したあと、ウイスキー数本を 輸入申告しなかったとして摘発され、それがもとでNORC(日本外洋帆走協会)を除名された。
この当時海外レースに参加するのは大変なことだった。名誉でもあった。その挙句ウイスキー数本の不申告で摘発というのも不自然である。 NORC東海支部内部の権力争いが絡んでいたとの噂もあった。

 

〜〜〜〜五ヶ所湾・VOC〜〜〜〜〜〜〜〜030924

1973年(昭48)、大阪でゴルフ場を経営していた中デベロッパーが三重県五ヶ 所湾の奥にマリーナ建設を企画した。 それはヨット乗りならばこそ知っている素晴らしい場所で、業者は「ニンフの住む入 り江」の賛辞を石原慎太郎からもらって宣伝に使った。
かねて英虞湾で遊んでいた私はその価値を知り、入会を希望した。

英虞湾より1つ西の五ヶ所湾は、住んでいた愛知知多から陸路2時間半かかりやや遠 かったが、いずれ道路も整備されるとの話であり、なにより防波堤を築かない天然の 入り江のマリーナであることに惚れ込んでしまった。こうして74年にVOC志摩ヨッ トハーバーに入会した。将来は相模や霞ヶ関のようなステータスになると夢見たので あった。
当時の私には入会金50万円の工面が厳しく、名古屋在住の友人安藤静二君と共同で 入ったのだった。しかし安藤君はその後海外に行き、年会費6万円を私が払うことに なり、そのうち2人とも名古屋愛知を離れ、そしてバブル崩壊でデベロッパーが倒産 し、5%というから2万5千円を10年後にくれるとかくれないの話になってしまっ た。私のバブル物語である。

マリーナとしてのVOC志摩ヨットハーバーは素晴らしかった。
後になってクラブハウスや宿泊棟やマンションなどが出来てあまり気に入らなくなっ たが、何もない入り江に木製の桟橋だけのマリーナは夢のようだった。
VOCではクラブ艇を用意して会員に貸してくれた。そのクラブ艇が「天城」だった。 これは渡辺修治氏(船舶設計者、ヨットマンとして有名)が第1回八丈島レースに優 勝した名艇で、33フィートの木造艇だった。会員はまだ少なく、いつでも好きな時 に借りられた。
KYCはレース参加だけになり、遊びの場は志摩YHに移った。 21Fや25Fの艇に乗っていた私が33Fの艇で始めて本格的なク ルージングを始めのだった。
五ヶ所湾から御座岬、麦埼、大王崎、安乗埼を回り鳥羽へ、そしてホームポートの三 河湾へ。
西に向かえば九鬼埼、三木埼をかわして熊野城、勝浦、潮岬、南紀白浜と足はどんど ん伸びた。
5月、お盆、正月、その他連休があれば目一杯のクルージングを計画した。
館山に置いたままの「ドーラ」を志摩YHに運んだこともあったが、もう21Fの艇 では物足りないのだった。志摩からの帰途、下田から伊豆大島へ向かうとき逆潮と雷 雨で厳しい目にあったが、それはまた別の物語りである。

熊野灘は本当に素晴らしい海だ。湾は深く、山は高く、尾鷲湾の奥以外に煙突はな い。世界有数のクルージングスポットだろう。御坊に原発が出来ると聞いた時は心底 嘆いたが、出来なくなって嬉しい。

「天城」で鳥羽レースにも2度参加した。重い艇で早いはずはないのだが、伊豆大島 を過ぎるまでトップグループ(20位以内)にいたことがある。そこで風が止まり、 微風の中をスピンを揚げた軽い艇が50艇以上追い抜いていった。
渡辺修治氏の時代のヨット乗りはエンジンを必要悪とみなしていたようだ。とことん セーリングで走りきることを本分としていた。後年「どんがめ」で日本一周をした時 にも軽油を70リットルしか使わなかったという。
そういう思想を反映してか、「天城」のエンジンは小さく、またもう古くていつも調 子が悪いのだった。寒い冬の朝などどうしてもかからず苦労した。これは本当は危険 につながることだった。
セールは重く、ファーラーはなく、人手がないと出せない艇だった。
通信手段もなかった。一旦海に出たら、もう助けを呼ぶことも出来ないのだった。 水盃ではないが、いつも出航前にはそれなりの覚悟をした。 必ずクルー全員の連絡先、クルージングの予定表をクルー全員の留守宅および関係者 に残した。
祖父が言っていた「流されたらな、八丈までいくから、あわてるなよ。」の言葉がいつも 頭にあった。
その頃津本陽が太地の鯨取りの物語り「深重の海」で直木賞をとった。八丈に流され る話もあって身につまされた。10冊買って仲間全員に配った。

仲間の1人に須貝和郎君がいた。VOCの会員として知り合ったのだ。 電通大阪の社員で神戸に住んでいた。私より10才くらい若かった。あろうことか私 と同じく素人ラグビーに熱中し、そしてヨット狂いと遊びの軌跡を同じくしていた。
京大 文学部の出身で文学への造詣は生半可ではなかった。
電通では松下電器を担当するディレクターだった。大スポンサーを担当するのだから 花形だったのだろう。何度も社長賞をとっていた。美空ひばりを愛し宝塚を愛し、そ してバタ臭いのだった。
どういうわけか気が合い、私がすぐに神戸転勤したこともあってすっかり肝胆相照ら す仲となった。飲みにいったり食いにいったり、京大のアメラグが全国優勝する試合 を見に行ったり、彼のアパートで飲んだくれたり、うちに遊びに来てまだ中学生だっ た娘明子と結婚するんだと言いだしたりした。
彼は御巣鷹山の事故で死んだ。痛恨の極みだ。生涯の友を失った。あんな友人はもう 出来ない。
どうしていい男はみんな早く死ぬんだ?
 

〜〜〜〜〜〜

近くのスーパーでイサキがビニールの袋詰で売られているのを見つけた。 たくさん入っていて250円である。形のいいイサキならこの辺でも1尾500−7 00円する。
安い。やや小型だが安い。迷わず買った。

帰宅して袋を開けてみたら11尾入っていた。形は18センチある。鮮度最高。 塩焼きとから揚げにして夫婦で3日楽しんだ。実に旨かった。 地元の定置網に大量に入ったのだ。


〜〜〜〜須磨ヨットハーバー〜〜〜〜〜〜〜〜030927

1976年(昭51)神戸に転勤になった。
神戸でヨットに乗れるかどうか心配だったが、ちょうどKAZI誌に「共同オーナー 求む」の広告が出ていてすぐに決まった。たしか5%20万円の出資だった。維持費 の負担は10%だった。
ヨットの世界で「共同」が多いのは、初期投資(ヨット購入費)の分担もさることな がら、人手の確保と維持費(係留費用やメンテナンス費用)の分担が大きな目的なの だ。サラリーマンが1人で全費用を賄うことは難しい。
それとセーリングクルーザー乗りの人口はまことに少なく(全国で10万人いないの ではないか。風で帆を操る技術者はそれほどに少ない。)、一旦この世界に入ってし まうとみんな仲間なのだ。

共同オーナーになった艇は30フィート艇「サムシング」、艇種はFBV、須磨ヨッ トハーバーに係留されていた。本当のオーナーは岡田正弘さん、自動車修理工場の跡 取り息子で、10人の共同オー ナーをまとめていた。
当時の須磨ヨットハーバーは妙法寺川を少し入ったところ、淡路フェリーの発着場の 向かい側の漁船溜りの奥にあった。波なんかまったく入らないところだから古い木橋 が桟橋で、いかにも伝統のある、そして格式のある落ち着いた佇まいのマリーナだっ た。関学や甲南の艇庫があった。
乗る船が見付かったこともさることながら、私には須磨ヨットハーバーのメンバーに なれたことが何より嬉しかった。関東ではメッカの油壺や小網代にはご縁がなく、館 山あたりのドサだったが、やっと本格マリーナのメンバーになれたのだ。マリーナ ライフのすべてが楽しかった。 社宅は阪急六甲駅の近くだったから、阪神高速で25分でマリーナに着いた。どうし てゴルフなんかに行けようか。

77年に須磨ヨットハーバーは新港(南港)に移った。といっても直線距離なら50 0メートルくらいの移動で、神戸市がコンクリ護岸にポンツーンの近代的マリーナを 作ってくれたのだった。須磨海水浴場の隣である。 移動の日、「サムシング」は一番乗りで、私の姿がKAZI誌の巻頭グラビアに大き く載った。

遊び場は主に淡路島と瀬戸内海だった。洲本、サントピア、沼島、鳴門、的形や姫 路、家島、小豆島、懐かしい。
館山や五ヶ所湾をベースに遊んでいた私には、冬の海は特に寒いものではなかった。 関東の冬の海水温は気温より高く、13−16度あった。しかし大阪湾の奥や瀬戸内 海の冬は海水温が7度くらいしかなかった。黒潮が入らないとこんなに違うのだ。関 西の人が正月クルーズを嫌う理由が判った。

阿波踊りレース。大阪湾帆船パレードの600艇参加のレース。ポートアイランドの 花火見物。よく遊んだ。 潮岬をまわって五ヶ所湾へ。岡田さんも古いヨット乗りだが加太の瀬戸を出たことは なく、彼らにとってもアドヴェンチャークルーズだった。
FBVはアルページュの前身と云われ頑丈な艇だった。「サムシング」は後に笹岡耕 太郎氏に買われ、彼はそれで世界一周をした。

神戸で3年を過ごしたあと静岡に転勤する際、私は出資分の返還を求めなかった。維 持費の負担をやめたから須磨ヨットハーバーのメンバーではなくなったが、「サムシ ング」の名誉共同オーナーの地位は継続している。今でも行って泊まることがある。

〜〜〜〜〜〜

ダメ犬訓練のTV番組を見ていつも身につまされる。 うちのロビーがてんでダメ犬なのだ。いや、ダメ親か。

ワイヤーフォックステリア、1才5ヶ月。
メガネはとって行って壊すわ、TVのリモコンはもう3つも買い替え、靴は1番上等 なのから食ってしまう。 人間にとって大事なものが判るらしい。
1番の愛情表現がひとの腕を穴の開くほど咬むこと。
動物病院ではもっと厳しく躾けろと云うが、年寄り夫婦の手に負えないのだ。 前のクー(ポメ)がどれほど可愛かったか、思い出しては2人で泣いている。
それでも朝晩強制される1時間の散歩(朝晩計で)が、どれほど我々の身体に益を与 えてくれるか計り知れない。
これから10数年こいつと付き合うのか。



〜〜〜〜清水鈴与泊地・下田〜〜〜〜〜〜〜〜031013

<回顧シリーズも飽きてきたので話を急ぎます。>

1979年(昭54)、清水支店に転勤になった。
駿河湾の最奥部の天然の良港である。若い頃ここで遠洋鮪船に油を売り、焼津・戸田 などの漁港巡りをしたことは前に書いた。

ここも武豊と同じように海上保安部のすぐ近く、鈴与の倉庫の前の海域が自主管理の ヨット泊地となっていた。乗る船はすぐに見付かった。ガソリンスタンドの若主人の 艇である。
しかしどうも馴染めなかった。ウマが合わないのである。他に1艇紹介してもらった が、この艇も長続きしなかった。そういうこともある。

乗る人もなく館山に繋いであったドーラ号は欲しい人が現れて売却した。FRP製の 艇は実に頑丈なものであった。

この頃下田の油屋さんから下田のKさんを紹介され、下田に行ったら乗せてもらう関 係になった。
Kさんはまだヨットはビギナーだったし、大酒を飲んで荒れていた疾風怒濤の時代 で、彼のことを書けばまた山ほどの物語りがあるのだが、それはおいておいて、実は 今もっぱら彼の艇に乗っている。20数年の付き合いになってしまった。

81年にパソコンを買って寸暇を惜しむ生活になり、ヨットとはしばらく遠ざかる。
そして84年にマイボートを買って伊東港に置いた。このことは次項に譲る。

鈴与前の自主泊地はいま公共の金が入って立派な「ボートパーク」になっている。 港の前の倉庫群はエスパルス会館となってショップや食堂や映画館のメッカとなり、 下田から映画見物に出かけているのである


〜〜〜〜伊東港〜〜〜〜〜〜〜〜031103

1980年、伊豆城ヶ崎海岸に土地を購入した。500uの伊豆急分譲地である。 いずれ住み着くつもりであった。
1983年、家を建てた。

家を建てたら次は舟の置き場である。
直近は富戸漁港であるが、ここはいるかの追い込み漁をいまだに続けていて外部の者
には近寄るスキさえ見せない。
川奈、八幡野、稲取、どこにもプレジャーボートの姿はない。つまり置けない。
伊東港の外堤防にプレジャーボートが20数隻並んでいたが、満杯でもうそれ以上置 く余裕はない。
そもそも海に舟を置くことが不法であるかどうか難しいところだが、漁港内にプレ ジャーボートを長期間係留することはやはり不法であろう。
伊東港の場合も不法だが地元漁船と折り合いをつけ既得権として置いているようで あった。

おりしも横浜市民ヨットハーバーで31Fの木造クルーザーの売り物があり、見に 行ってすっかり気に入ってしまった。
伊勢の湊洋工業の製造でマリン合板製の船齢17年。エンジンのヤンマー2GMは5 年前に換装してあった。価格は200万円であった。 なんとかこれを伊豆に置きたい。

そこでKAZI誌に「伊豆東海岸で係留場所付きのヨット買いたし。」の広告を出し た。
目論見通り伊東港外堤防に係留してある艇から引合いがあった。船齢14年の米製C
&C30船外機艇で、係留権付きで100万円という。これを購入してすぐに艇だけ売却し、後に横浜の31F木造艇を入れることにした。
C&Cを購入しすぐに売りに出した。しかし右から左にすぐに売れるわけはない。
一方横浜の31F木造艇は、次の艇を買ったのが入るのですぐに引き取ってくれとい う。 やむを得ず横浜から伊東まで乗ってきてC&Cに抱かせたが、なにしろいっぱいいっ ぱいで並んでいるのでたちまち近隣の艇からクレームがついた。
あせってボート業者に引き取ってもらったが30万円に叩かれた。 結局係留権(といってもなんの保証もない既得権だが)が70万円についたことにな る。
こうして伊東港での6年が始まった。

不法係留だから(?)係留料はどこにも払わないが、そこは実に厳しい条件の泊地 だった。
港だから、堤防は台風に備えて南東に向いている。艇はその北西側に繋いでいる。 ところがこの場所は北西の風が凄いのだった。伊豆の東海岸でなぜ北西の風が?と思 うのだが、とにかく冬は風波に曝された。 40数年のマリン経験であんなひどい場所に繋いだことがない。艇の傷みはひどいも のだった。
家は建てたけどまだ伊東に住んではいなかったので、会社が終わって静岡から2時間 かけて駆けつけ、もやいを取り直したことも何度かある。まあこれが無償係留の代価 なのだ。全国のヨットオーナーの多くがそんな経験を忍んでいる。

しかし伊東でのヨットライフは楽しかった。
その最大の思い出はニール号事件だろう。なんと100年前の沈船を見つけたのだ。

 

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