<<< 回顧シリーズ>>>

#4−ラグビー  030515,21


いつも今頃の季節になると思い出す。
好きな言葉だし、誰にでも言っているからこの通信にも何度か書いたかもしれない が、 また書く。

<嫁とる前、蚊帳吊る前>

苦労して育てた息子がやっと1人前になり、稼ぎ始めた。少しは家計も助けてくれ る。
まだ嫁とる前で一家に他人が入らない。親子水入らず。家族にとって一番いい時期 だ。
春が終わり夏になる前、暑からず寒からず、日も長くなって、まだ蚊帳はいらない。 いまが一年で一番いい季節だ。

いま5月、一番いい季節だ。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

なんとなく書き始めたこの回顧シリーズだが、だんだん身の上話になってきた。
話はラグビー場に進む。

中学からずっとサッカーをやっていたのだが、大学3年の頃体調が悪くて練習に出ら れなくなり、そのまま退部してしまった。
ダンスやビリヤードに流れたのはその後ろめたさがあったのかもしれない。生来の怠け者なのかもしれない。


しかしフィールド競技への愛着は残っていて、就職した出光で25才から32才頃ま でラグビーをやった。
出光ラグビー部のメインの目標は石油会社対抗のオイルメンリーグであった。
どの会社も都心にグランドを持っているところはなく、あちこち借りては試合をする のだった。
はじめの頃よく借りたのは上智大学のグランドだった。青山学院大学の綱島グランド でもよくやった。
後半は多摩川オリンピア球場が多かったと思う。東横線から見下ろす、あの寒風吹き すさぶ川原のグランドである。どこもクレイコートで芝生などはなかった。
ある年、多摩川での日本石油との対戦の日は猛烈に寒く雪も降ってきた。スクラムを 組むとその上に白い湯気が上がるのが見えるのだった。
とにかく寒くて凍えて、試合が終わって黙々と新丸子の銭湯までひたすら歩いた。も しあの時銭湯で入場を断られていたら心臓麻痺を起こしたかもしれない。
銭湯は寛容にも泥だらけの我々を受入れてくれた。まず庭に回って水道で身体を洗え という。冷えた身体には外気の中でホースで浴びる水道の水が温かく感じられた。
同じ風呂に入って、商売敵の日石の選手に戦友としての友情を感じるのだった。

オイルメンの他に特定の会社と定期戦を組んでいて毎年試合をした。
出光の場合、東京海上、東銀、日魯漁業などとの定期戦があった。東京海上は椎名町 に、東銀は武蔵小杉に自前のグランドを持っていた。それはまさにエスタブリッシュメ ントを感じさせた。
後年(昭和45年頃)、出光も市ヶ尾に自前の芝生のグランドを持ち、オイルメン リーグもそこを常設場所にするようになった。
いま、東京海上も東銀も出光もグランドを手放して無い。 時はうつろう。

われわれのオイルメンリーグはローカルの草リーグでとても全国実業団リーグに入るほどの レベルではなかった。
しかしある時、ラグビーのメッカ秩父宮ラグビー場で対戦する話が舞い込んだ。 東京海上が損保リーグで3連覇し、ちょうど我々もオイルメンリーグで3連覇したと ころで、それを記念して秩父宮での試合が許されたのだった。普通なら絶対に踏めな いグランドである。張り切りましたねえ。
試合は昭和40年10月6日にナイターで予定された。実はその日はわが娘の出産予 定日だった。妻には何が起ころうと試合には出るぞと言い含めたが、娘は親孝行にも 5日にこの世に出てきたのだった。
当日、初めての芝生グランド、初めてのナイターに足は宙を踏むが如くであった。 そしてこの試合で、鈍足ロートルの小生がトライを決めたのであった。味方フッカーの飯島と競り合って掴んだあのボール、放してなるも のかとしっかり握ったあのボールの感触が今でも忘れられない。
このトライはわが人生における3大快挙の一つである。

秩父宮でのトライは甲子園でのホームランである。
後年愛知製油所でチームを作り中京大学ラグビー部にコーチを委嘱したが、トライの実績はローカル 大学の彼らの敬意を受けるに充分であった。

 

Home  次へ  前へ

1.サッカー 石原慎太郎のこと   2.ダンス、ビリヤード     3.雀荘 
4.ラグビー  5.ゴルフ  6.ゴルフ会員権とマリーナ建設 
7.石油業転価格予測  8.ヨット1−闇舟体験  9.ヨット2−マリーナ遍歴 
   Home