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#8−ヨット1・闇舟体験  030725−0728

∞∞∞Ladies&Gentlemen∞∞∞∞∞∞∞

ほんの寄道のつもりのパソコンシリーズが7回にもなってしまった。

いよいよ本番のヨットシリーズである。

わが生涯のヨット遊びの原点は北朝鮮からの闇舟体験にある。



〜〜〜〜闇舟〜〜〜〜〜〜〜〜030725

あたりに人気(ひとけ)のない工場内の桟橋に異様な船が着いている。黙々と人が集まる。
乗り込んだのは日本人30数名。船頭4、5名。
それぞれにリュックサックを背負い、手に持てるだけの荷物を下げている。
場所は北朝鮮城津の日本高周波鋼業内の波止場だ。
時は昭和21年9月。
見送る者も送られる者も皆声をひそめあたりをはばかる。
乗り込んだ中に2人の兄弟がいた。兄森下一義11歳、弟森下一乗8歳。
弟一乗が出航前のわづかな時間にちょこちょこと出て行き、手のひら一杯の野の花を摘んできて、「これをノンノさんに上げて」と母親に渡した。
その心根の優しさと、もうこれで生きて会えないのかとの思いで泣いてしまったと、今年89歳の母節子はいまだにこの情景を思い出しては涙ぐむのである。

その船は<闇舟>と呼ばれた。
敗戦後の北朝鮮にどのような秩序があったのか今の一義に知る由もないが、その船はいろんな意味で非合法だったから<闇舟>と呼ばれた。
船は木造船である。帆掛け舟である。エンジンはない。
日本高周波鋼業城津工場に残留していた日本人が金を出しあって購入した南への脱出船である。許可証も旅券もない。難民船である。
<闇舟>としか言いようがない。

兄弟は父母と別れ、2人だけでこの船に乗せられたのだった。

〜〜〜〜状況〜〜〜〜〜〜〜〜

昭和20年8月9日、ソ連軍は突如満州への侵攻を開始した。
兵員170万人、航空機5千機、戦車5千台の大兵力だったという。
戦後処理で日本への分け前確保を狙ったスターリンが急ぎに急いだ攻撃であり、ヒロシマ原爆投下の3日後のことである。
この攻撃部隊が城津に到達したが8月23日であった。

日本高周波鋼業城津工場は鉄鉱石から製鋼、特殊鋼製品までの一貫製鉄工場であり、日本人従業員2600人朝鮮人従業員4500人を擁する大軍需工場であった。家族を含め在留日本人は4300人を数えた。

ソ連軍侵攻および敗戦を迎えて、城津の日本人はほとんんど為すところなかった。情報と指示が途絶えたのである。
そしてソ連軍の第1線部隊の進駐でたちまち厳しい現実に曝される。彼らは戦闘部隊であり、囚人で編成された部隊であると噂された。
砂塵を捲いて進入する戦車部隊。沿道に旗を振って迎える朝鮮民衆。鳴り渡る銃声。
兵隊は女を求めて日夜民家のドアを叩き、略奪は日常茶飯事であった。兵士たちは腕に10個もの腕時計を付けていた。
父は拳銃で殴られて歯を折った。朝鮮人の暴動も始まった。

工場の主だった幹部は拘束された。ある者はソ連に送られた。結局工場長は殺され、技師長の帰国は10数年後となる。
我々にとって幸いだったのはソ連軍が軍需工場に価値を見出したことである。はじめ彼らは重要な機械を撤去して本国に持ち去った。しかし20年12月に一部工場の操業を開始する。 そしてこの仕事を旧日本人従業員に任せた。
トップを失って残った城津工場幹部は残留する従業員を糾合して操業再開に協力した。そして邦人支援や祖国引揚げのための「日本人世話会」を作った。
朝鮮人従業員への預り金返還や退職金支払い等の残務処理を行った。またソ連軍と交渉して日本人従業員の工場社宅への居住の保証を獲得した。
父森下梅一は当時34歳、経理課予算係長として幹部の一員であった。

この社宅居住の確保こそ我々の最大の幸運であったと思う。
敗戦により外地の日本行政組織は消滅し、満州および朝鮮の日本人は一切の国家の庇護を失った。そしてまず住宅を奪われた。
満州から、そして朝鮮国境から、家を失った日本人が続々と城津を通って南下していった。
「連日連夜来る日も来る日も真夏の炎天下を、敗戦の日本民族が大河となって流れていった。老幼女子からなるこのみじめなる大河の流れは、日本の歴史上いまだかってなき悲惨を極めた風景であった。道々略奪暴行を受け、へとへとに疲れ果てては野宿し、歩けるぎりぎりまでを歩きつくして南朝鮮を目指していった。」と記録 (こうしゅうは−’91北朝鮮引揚げ特集号)は記す。
藤原てい「流れる星は生きている」にその姿が詳しい。(「国家の品格」藤原正彦の母である。)
彼ら難民にとって高周波社宅に住み続ける我々は天国の住民の如くに見えたという。

4300人の在留日本人がそのまま全員残ったわけではない。ソ連軍進駐前に逃げた者もいた。その頃はまだ南朝鮮への汽車が動いていた。歩いて逃げた者もいた。しかし大方は結束を保って帰国の時期を待った のであった。一つにはソ連軍が工場再開のために日本人の移動を禁じたからでもあった。

21年3月、ソ連軍は城津工場維持のため約200名の「残留者」名簿を発表した。かくして日本人は「残留者」と「帰国者」に分けられた。父梅一は残留者に指名された。
しかしソ連軍が行ったのは残留者の指名のみであり、帰国希望者に日本帰国の手段を用意する意思はなかった。日本人世話会は帰国の方策を検討することになる。
在留邦人の中には出征兵士の家族も多かった。乳幼児もいる。世話会は歩いての北鮮脱出は不可能と結論した。そして選んだのが海路による脱出であった。

世話会は漁船(帆船)を3隻買い取り、工員中の操船経験者を船頭として南朝鮮への往復航海を行った。21年9月までに残留者を除くほぼ全員の輸送を完遂した という。船員は何度も生命の危険を冒した。引揚史上に残る偉業だと言われる。
あの混乱の中、世話会幹部のある者は京城、東京との往復を果たしたという。日本まで行ってそしてまた戻るとは信じられない行動である。

何故帆掛け舟であったのか。戦時下、民間の発動機船が建造され流通する余裕がなかったこともあろう。ソ連軍あるいは北朝鮮当局になんらかの意図があったのかもしれない。いずれにしろ船は老朽の帆船漁船であった。航海の間には何度も帆柱が折れたという。
ソ連軍は残留指名者以外の日本人脱出を黙認した。北朝鮮当局は必ずしもそうではなかった。北朝鮮警察や軍もまたそれぞれの動きであった。闇舟たる所以である。
日本人世話会はこの船の経費を賄うため大人500円、小人300円を徴収した。すべて自力のプロジェクトであった。東京までの潜行を敢行した幹部が、日本高周波本社および外務省 と折衝したが何の援助も得られなかったという。
出征家族、養成工らにはその船賃が工面出来なかった。日本人世話会は日本人仲間に「引揚資金証券」を発行して資金を募り、彼らを乗せたと いう。帰国してから返す約束である。個人間の貸借にしない知恵であった。

帰国。残留日本人の希望はその一点にかかっていた。日本に帰国しさえすればすべての問題は解消すると考えていた。
 


〜〜〜〜敗戦後の生活〜〜〜〜〜〜〜〜030726

生活は<売り食い>であった。
売れる物を売るしか生活の手段はなかった。敗戦国の製鉄工場の従業員にほかに何をする知恵も技術も環境も時間もなかった。
売るには、闇市に持って行くか、鮮人が買い取りに来るのであった。

売る物がない者は食えなかった。
そのために養成工がまず飢えた。養成工とは15、6才の青年を内地から呼び寄せ、寄宿舎に入れて一人前の工員に育成する制度である。彼らには売る家財・衣類がなかった。
早い時期に歩いて脱出した者もいたがが残る者も多かった。目のあたりに見る南下する難民の悲惨さが、歩いての脱出をためらわせた。
わが家でも2人の養成行を引き取った。

ソ連軍による日本人移動禁止命令のみあって、現前の生活手段も先行きの見通しも何も与えられないままの不安の時期が続いた。
しかし工場の製品および機械設備の搬出が始まり、12月になって工場の操業が一部再開された。日本人はその使役に駆り出され、1200名が働き、それらの労働に対して大豆・高粱の配給と給与が支給され るようになった。若干の秩序が戻った。
日本人世話会は配給の食糧および給与をプールして皆で配分した。出征留守家族や養成工にも配分された。
正月を迎えるある日、母節子が「ごめんなさいね。これしかあげられないのよ。」と言って闇市で買った飴玉を2粒渡してくれた。どうして親が子供に謝るのか不思議に思ったことを一義は鮮明に覚えている。ほかに正月の料理はなかった。
飴玉とて他の同居家族の眼を憚るものであったのかもしれない。

栄養失調者は続出し幼児の死亡が増加した。脱出者の空家も増えた。出征遺家族、養成工、養成看護婦など生活力なき者の困窮が深まるなか、社宅集約が実行された。
我が家は、我が家族(父、母、一義10歳、一乗7歳、迪子4歳、一期2歳)、母の妹およびその夫(高周波社員)、S出征社員の留守家族(妻、幼児、乳児)、養成工2名の13人の所帯となった。

子供たちはいつも群れていた。群れて遊んでいた。親に子供を顧みる余裕はなかった。トム・ソーヤーのように樹上に小屋を作って寝泊りしたり、ゴムのパチンコで鳥を撃ったりして、それなりに楽しいこともあった。群れるのは朝鮮人の子供に襲われるのを避ける意味もあった。
ソ連軍の行進には必ず歌があった。リードテナーの声は素晴らしく、いつしか一緒に歌うようにもなった。戦後うたごえ喫茶でそれらの歌を聞くことになる。

21年3月になり、ソ連軍は工場操業のための要員200名を「残留者」として指名した。他の者は不要者である。
200名の配給食糧と給与で全員は食えない。いよいよ帰国を図らなければならない。売り食いで再度の冬を越すことは出来ない。真剣に帰国の方策が練られた。こうして闇舟による脱出が始まった。 父も世話会の中心メンバーだった。

父森下梅一が長男と次男を闇舟に乗せる決心をしたのは、9月になり第2次の「残留者」として自分が指名されたからである。少数の技術者とソ連との折衝当事者だけが 指名された。梅一は<このまま一生日本には帰してもらえないのではないか>と感じた。どうせ外地に朽ち果てるなら、子供だけでも運を天に任せて送り出そう。

すでに「帰国組」の脱出は終わり、それは最後の闇舟であった。共に働いてきた「残留」を解除された者たちが乗り込んだ。
父は同居していた養成工YとTを守役につけ、11歳の長男と8歳の次男を海に送り出した。21年9月下旬のことである。


〜〜〜〜闇舟の航海〜〜〜〜〜〜〜〜030726

38度線を越えるまで航海3日の予定であった。
船は沿岸の北朝鮮漁船や警備艇を避けて遠く沖出しした。深く、蒼い海だった。エンジンのない帆掛け舟は静かに静かに進んだ。
一義はひたすら海の底を眺め続けた。夜はデッキの上で星を見上げた。デッキの上は夜露が降りる。しかし船内に兄弟2人の寝場所はもうなかった。
すでに乗り込んだ最初から、居場所の確保や食事の配給において、親のない子の立場は弱いのであった。

3日目は嵐になった。
嵐の中での大人たちの狂態を、差別を、感じていた一義はむしろ<いい気味だ>と思って見ていた。結局目的の港に入るまでに7日を要した。
老朽の漁船の上で、トイレはとても女子供の使えるものではなかった。8歳の弟がどのようにしたか、覚えがない。
40名分の炊飯の設備はなかった。なにより水が切れてきた。飢えと不安が船の上を覆った。

最後の日、北朝鮮警備艇の銃撃を受けた。拿捕が目的だったのか、海賊目的だったのか、判らない。ただ銃口の閃光だけが強烈な記憶である。
それをどうして脱したのか、記憶がない。ちょうど米軍のボートが通りかかって曳航してくれたのだったか。

入った港は註文津(ちゅうもんしん)である。
この時期、南鮮における日本人引揚げの拠点として米軍のキャンプがあった。ここから日本内地向けの引揚船が出航した。
このキャンプに兄弟2人は10日ほど滞在した。この頃まではまだ2人の養成工は一緒だった。
そして内地向けの引揚船に乗った。リバテイ船と呼ばれる戦時型貨物輸送船であった。
着いた港が佐世保であった。

内地の山の緑が眼に染みた。
 

〜〜〜〜旅の残り・祖父母のもとへ〜〜〜〜〜〜〜〜030728

目的地は祖父母の住む愛知県渥美郡福江町(現渥美町)小中山であった。
守役の養成工はそれぞれ故郷近くで降り、わが兄弟2人は進行方向に進む人に託された。思えば彼らも18、9才の未成年だったのだ。
託された人が終点まで送ってくれたわけではない。次々とリレーされた。名古屋駅やどこかの農家に数日留め置かれたこともあった。
多くの人のお世話になったが、多くの危険を踏んでいたようにも思う。佐世保から2週間以上を要している。

最後に託された人は福江のバス停まで我々を届け、祖父に電話をして去った。
祖父母は吃驚仰天したであろう。孫が2人、いきなり福江に帰って来たというのだ。祖父は4キロの道を走ってきてくれた。まだ車のない時代であった。
あのバス停で待った時間の記憶も深い。

21年11月、わが兄弟は福江町立中山小学校の5年生と2年生に復学した。1年3ヶ月の学業ブランクであった。幸い学年の遅れはなかった。

一義は全身に吹き出物を生じ、悪童に「ネブツ問屋」と囃された。中学では肺浸潤で3ヶ月休学した。欠食と栄養失調の結果であろう。

父母と妹、末弟は1年後に帰還した。
豊橋の駅頭で再会するまで、親と子は互いの安否を知らなかった。


〜〜〜〜小中山漁港〜〜〜〜〜〜〜〜030728

小中山は渥美半島伊良湖岬をちょっと三河湾に入ったところの半農半漁の小村である。
兄弟はすぐに半農半漁の生活に入った。麦刈り、田の草取りの辛さが身にしみた。
稲束を満載して兄が曳き弟が押すリアカーを坂道で制御出来ず、養魚池に飛び込んだ
こともあった。

この時期、物資の不足から日本全体が本卦がえりしたというか、機械や動力のない時代に戻っていたような気がする。すべてが原始的だった。例えば脱穀も精米も足踏み式でやっていた。そんな動力機械がなかったはずはないのだ。

春には西の浜にコウナゴが押し寄せた。それを地引網でとり、浜で大釜で煮て、筵に干して煮干にするのである。村中総出の作業であった。
コウナゴが寄せる場所には筋があり、何度網を入れてもまた同じ場所に寄せてくるのである。だからその筋に網を入れようと、何統もの網船が順番を待って並ぶ。後ろから押されるから この並ぶことを<オサレ>という。
網船は勇ましく櫓で漕ぐのであった。4丁櫓だったか。今から思えば信じられないことだ。沖に出る外洋漁船はさすがに動力船だったが。
コウナゴが寄せる日、半鐘が鳴って学校は臨時休講になった。地引網を曳くのに中学生には半日当が出るのに、6年生には出ないのが悔しかった。

海苔の収穫、加工も1人前に手伝った。ノリソダから海苔をハサミで切り取り、裁断してタコに干す。真冬の辛い作業だ。今はこの殆どが機械化されている。
真っ黒い海苔で漁協に出荷し、いい値段になった。町の人がそんなにも高いお金を払うことが不思議に思われた。

祖父はもう隠居の立場で、手漕ぎの漁船で小漁師をやっていた。三枚網という刺し網の一種を仕掛けて待つのである。その櫓を兄が漕ぎ、弟は網を手伝った。
力いっぱい櫓を押して身を乗り出すと、足の裏を残して全身が海の上だった。田舎では<櫓櫂(ろかい)3年、竿8年>という。竿を操る方が難しい。

結局小中山の生活は1年10ヶ月で豊橋市に移った。
しかし闇舟体験と小中山体験で海は一義の身体に染み込んだ。

これが私のヨット遊びの原点である。
弟は兄と同じ一橋大学に進み、ボート部の代表幹事を務めた。

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