<<< 回顧シリーズ>>>

#7−パソコン−石油の業転価格  030615−0627


パソコンとのことをちょっと書いておく。

皇居北の丸に科学技術館が出来たのは東京オリンピックの頃だったろうか。
(毎度昔話で恐縮だが、回顧シリーズなのでお許しあれ。)
パレスホテルから歩いて見物に行ったらオープンの目玉に「コンピューターによる適 職診断」というのをやっていた。 100近い質問項目に答えて出てきた我輩の適職は<教祖>であった。
政治家とか弁護士とか医師とか技術者とか、いろんな職業が用意されているのに<教 祖>とは何事か。

この事件は我輩に2つの大きな後遺症を残した。
1つはやはり<教祖>である。これで教祖になろうと一念発起することはなかった が、教祖が気になる存在とはなったのである。
2つはコンピューターである。100もの回答から1つの結論を導き出すのは、コン ピューターでなければ出来ないことだと痛感したのであった。

今振り返って、我輩が教祖になるチャンスはなかった。 なぜなら<啓示を受ける>ことがなかったからである。
世の<教祖>の物語を読むと、どこかで<啓示>を受けているようである。その<啓 示>を世に広め、信者に広めることで<教祖>になる。
しかるに我輩はどこかの神とか仏とかの<啓示>を受けるにはあまりにも自分が偉 かった。他者から何かを受け入れるように心が開かれていないのである。こういう人 間は神仏から嫌われる。
ただお釈迦さまは「天上天下唯我独尊」と仰っている。 まだ判らないぞ。我輩もこれから<独立教祖>になるかもしれない。

コンピューターについてはこの時に<多変量解析>なる言葉を知った。コンピュー ターなればこそ出来る作業であった。ダンス、玉突き、ヨット、麻雀、ラグビーに淫 していた我輩が初めてコンピューターに関心を持ったのであった。
富士通のBASIC合宿講習を受けるずっと前のことであり、当時もちろんパソコンの存在を知らなかった。
そのうちに相性診断による結婚紹介が独ツバイにより事業化されて日本にも紹介され た。 後で知ったことだが、多変量解析の理論そのものが相性診断から発展したものだとい う。


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戦後(しか知らないのだが)一貫して、石油業界には正規の流通の他に業転市場と呼ばれる流通世界があった。
石油メーカーから特約店とか商社など石油流通業者に卸されるのが正規ルートとして、どこから出た玉か判らないままにブローカーや商社間で取引されるのが業転である。
特にその市場がたっているわけではないが、それなりの相場形成が成り立つだけの流通量があった。全体量の2割を占めていたのではないか。業界紙はその相場を重要な情報として掲載した。
他の商品相場と異なるのは必ず現物の授受を伴っていたことである。

その時々背景は異なっていたようだが、話を昭和40−50年代にしぼると業転市場が成立する要因が明確に存在した。それは生販ギャップと言われる生産量と販売量のギャップである。単なる換金市場ではなく、構造的に必要な市場であった。。
当時石油メーカーの製造設備は通産省の許可対象であった。販売力があるからといって必ずしもそれだけの設備許可は与えられない。そこには天下りとか、いろんな要件が絡むのである。
経済は右肩上がりだから設備は常に不足気味である。フル操業に近い。販売力より生産能力の多い会社は生産した製品を全部自社で販売したと言いたい。販売力のないことを認めると次の許可割当で不利になる。そのために闇の世界の業転市場に流すのである。
そこに闇の紳士もうごめく。三菱石油を舞台にした泉谷某のスキャンダルを覚えている方も多いだろう。
役所に楯突く出光は常に買手側であった。

正規の流通ルートが建前の世界なら業転はフリーマーケットである。まさに需給で動く世界である。そしてそこに石油ならではの条件が働く。
1)石油は連産品である。ガソリンが欲しいからといってガゾリンだけを作ることは出来ない。原油の得率に応じて他の製品も産出される。
2)石油はバルキーな商品であり、危険物である。どこにでも置くことは出来ない。製品毎のタンクの容量が大きな制約条件となる。
3)需要に変動がある。例えば豊水で水力発電が増えると石油火力の稼動が落ち、C重油の消費が減る。するとC重油タンクが一杯になって軽油は足りないのに原油を処理することが出来ない。暖冬で灯油が余ると灯油タンクが一杯になって原油処理が出来ず、他油種が不足する。
こういった条件の中で価格が形成される。

<教祖>のご託宣以来多変量解析に関心をもった我輩は、まさに石油の業転価格こそ多変量解析の対象であると考えた。
そしてそれにはコンピューターが要る、どこかのコンピューターに計算を委託しようと考えた。
自分でコンピューターを動かすことなど考えもしなかった。動かすためのソフトを組むことも考えなかった。それはその専門の仕事である。自分の仕事はデータを揃えることである。
個人の計算を受けてくれるような計算センターを知らなかったから一橋大学にでも持ち込もうかと考えた。
幾らかかるかが一番の問題だった。。
(笑はないで下さいよ。コンピューターなんて遥かに遠い時代に、その中でも遠い存在の毎夜麻雀に明け暮れている一営業マンが考えたことなんですから。)

ここで特筆すべきは会社(出光)の計算センターに持ち込もうとは全く考えなかったことである。教祖たる所以か。
だって個人と会社は違うではないか。これは我輩の計算である。 会社にコンピューターの使用料を支払って受け取ってくれればいいが、受け取らないと会社の計算になってしまう。


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プログラマーを雇いメインフレームを賃借りしようという野望を秘めて、我輩は無頼の日々を送っていた。それが幾らかかるプロジェクトなのか、調べるルートすらなかった。そんな人脈は我輩には皆無なのだから。
勤務地は神戸から静岡に移る頃のことである。

1970年代後半になって「パーソナル・コンピューター」なるものを米国から輸入販売する会社が出始めた。当時の銘柄はタンデイ、アップル(一世を風靡する前のアップルである)、コモドール、テキサス・インスツルメント、アタリなどであった。
しかしパーソナル・コンピューターも我輩には縁遠いものであった。ハードに関心はない。我輩が求めるのはただ<多変量解析>のツール、そしてそれを動かすマシンのみである。

そして遂に<多変量解析プログラム>ソフトを見つけ、それを動かすCommodore−PET2001を購入したのであった。1980年のことであった。
添付の写真をご覧ありたい。右下にある黒いボックスはカセットデッキである。記憶媒体はカセットテープであった。ご本尊のソフトもカセットテープで送られてきたのであった。


当時のアスキー誌が残っているが、まだ「パソコン」の言葉はない。パーソナル・コンピューターの略称は「マイコン」または稀に「パーコン」である。

小生の記憶では、シャープの4Kの自作キットが最初の国産マイコンだったように思う。1980年にはNEC・PC8001、シャープ・MZ80、沖電気・IF800が発売もしくは発売予告されていた。


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コモドールPET2001を入手した。
多変量解析のソフトを入手した。

データ集めを開始した。

基本となるデータとして通産の「石油資料月報」があった。原油の輸入実績、処理実績、製品毎の生産実績・販売実績などはこれに出ている。これは図書館でも見られる。しかし製本されて一般が入手出来るようになるには4ヶ月以上かかる資料であった。
「速報版」を手に入れなければならない。これとて個人が入手するためには相当の購読料が必要となった。本社勤務ででもあれば、いかにプライベートの仕事とはいえ資料を覗き見て数字をメモするくらいのことは出来ただろうが、営業支店にそういう資料はなかった。

「石油資料月報」に出ていないデータも必要だった。
例えば製油所は毎年1ヶ月にもわたるシャットダウン・メンテナンス(定期修理)を義務付けられていた。この予定を探り出して与件に含めたい。
各社の製品得率を知るために処理原油の構成を知りたい。
電力需要の変動を掴むために月ごとの出水率の変化も押さえておきたい。
製油所のタンクだけでなく流通段階にある製品タンクのキャパシテイを知りたい。
こういうものをしこしこと集めるのであった。
原油の到着状況を予知するためにマラッカ海峡通過タンカーの動静を掴むべく、シンガポールのポート・ニュースを購読したりもした。
忙しい日々であった。

各データがどれほどの意義を持つかの検証を始めた。
求めるものは石油製品の業転価格である。どのデータのどういう組み合わせが価格に最も反応するか、試行錯誤が始まった。楽しいけど本当に忙しかった。
会社の仕事ではないのだから当然帰宅後の作業となる。とてもじゃないがうじうじと酒なんか飲んでいられない。
本業お客さん接待は欠かさないが、社内の酒・麻雀・ゴルフは欠礼することになった。

理論はない。とにかく体当たりでデータとその組み合わせを幾つも幾つも試すしかない。そうして遂に次月のガソリンの業転価格予測において0.93の重相関係数を持つモデルに到達したのであった。
感激でしたねえ。0.93といえばほぼ正比例関係にあるといっていいくらいの数字です。
当時ガソリンの卸価格は9万円/キロリットル前後だったが、そのレベルで変動を100円か200円以内の誤差でキャッチ出来る精度だった。

本当に万歳であった。バンザイであった。
しかし共に快哉を叫ぶ仲間は誰もいなかった。まったくの個人の作業だったから。教祖の孤独である。
妻はどうであったか。またいつもの病気よ、と思っていたのであろう。


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明日から寂しい。

今日は夏至である。
明日から毎日、日が短くなってゆく。
今朝、もう日の出が1分遅くなっていた。
寂しい。

4時半の日の出だと4時には明るくなる。
19時の日没だと20時近くまでなんとか見える。
紀伊半島大王崎あたりから御前崎を目指すと、港に入るのが19時ぎりぎりになるの
だ。

夏が好きだ。いつも太陽が恋しい。

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石油製品の業転価格予測は結果として満足に機能しなかった。

理由は2つ、1はデータの鮮度であり、2は官の介入である。

データの鮮度
今6月末として7月10日のガソリン業転価格を予測するとしよう。6月末時点でのガソリン在庫が正確に掴めるならば、わが0.93の予測モデルは有効に機能するはずであった。在庫量は生産実績および販売実績の結果であり、価格に最も敏感に反映する要素である。価格予測の土台となる。
しかし実際に小生が入手出来るのは4月末の在庫データしかなかった。それが発表され入手しうる最新のデータであった。他の諸データもほぼそれに準ずる。
4月末のデータから積み上げて5月末、6月末のデータを推測し、その数値から7月10日の価格を予測することになる。これではブレが大きく正確な結果をもたらさない。
つまり予測モデルは過去の完全なデータの上に構築されたが、現実には完全なデータは存在しないのであった。

官の介入
石油精製において製造設備が官の許可制であったことは既に述べたが、毎月の生産量もなんらかの形で官の統制下にあった。法によらないので<生産調整>等の名前で呼ばれたが、実質統制に他ならない。ただこの統制は石油業界の希望するところでもあった。
ところで1980−82年は、わが国の石油精製の歴史の中で例外的に<統制>のない時代だった。第2石油ショックの直後で、政府はとにかく潤沢に石油を供給させるために一切の統制をはずした。石油業界はレセフェールの状態におかれた。
私が価格予測モデルを構築したのは実はこの時期だったのである。自主的な原油処理・製品生産、そしてその結果としての需給・在庫要因から形成された業転価格をデータとして使用した。価格は見事にマーケット要因を反映していた。
しかし1983年頃よりガゾリンの生産調整が再開されたのであった。各社の自主生産が大幅な生産過剰を招き、製品の値崩れを招いて石油連盟は生産調整の実施を通産に要望したのである。(石油連盟が正式に要請した証拠など残っているはずもないが、その辺は官と業界との阿吽の呼吸である。)

かくして需給に人為的な介入が入ってきては、私のマーケット要因のみに頼るモデルは機能を阻害される。
私は次第に石油の業転価格予測への興味を失っていった。

価格予測を考える者は当然の帰結として株価予測に関心を持つであろう。私もこの後株価予測の世界に足を踏み入れるのだが、この辺りの物語は諸兄の物語と変わるところはないであろう。



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特筆すべきはコモドールで遊んでいたこの4−5年の間にマシントラブル、システムダウンがなかったことである。
扱い店の「システムズ・フォーミュレート」は早く潰れたからトラブルがあったらどうしようもないところだった。

無事故できたのは小生が何もいじらなかったからだと思う。
当時のマイコン雑誌を見るといろんな言語の紹介と説明、何百行ものプログラムの例示が並んでいる。パッケージソフトの広告はない。ソフトは自分で作るもののようだった。それがマイコン遊びだった。
小生はそれが出来ないからひたすらデータを集め、入力し、結果を見てデータの組み合わせを変える作業
だけに集中した。
コモドールのOSは何だったのか、多変量解析ソフトの記述言語は何だったのか、どうか聞かないで欲しい。そちら方面は我が守備分野ではない。

この頃、畏友郡山史郎君はソニーのマイコン事業部長としてソニー印のマイコンを売りまくるべく奮闘していた。しかし戦い利あらず、彼は事業部を畳む挫折を味わう。
彼がビル・ゲイツに助言を求めたところ、「自分でOSを作ろうなんて考えるな。」と言われたという。言や、よし。

我輩はOSもボックスも作らなかったが、ビル・ゲイツにならなかった。

 

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