<<< 回顧シリーズ>>>

#2−ダンスとビリヤード  030426−28



われ等の学生時代にはほとんど隔駅にダンス教習所があった。 ビリヤードは各駅にあったからその半分の数があったことになる。
ダンスくらい習っておくのが紳士の身嗜み、といった感じだった。
小生が最初に通ったのは学芸大学の教習所だったと思う。

小生の通学経路は目蒲線緑ヶ丘から自由が丘、東横線に乗り換えて渋谷、山手線で新 宿、中央線で国分寺、多摩湖線で一橋大学駅と105のルートだった。学校に行き着く までにどこかに不時着しても当然だ。
近くには岡本光生(旗の台)、木下友男(鵜の木、いずれもR組)がいた。

さて教習所では教師にダンスを習う。
こちら学生、先方教師、社会人で年上、ずいぶん恐ろしく思ったものだ。今思えば20代か30代の女性だっただろう。社会全体が若かった。
当時、現在のようなダンスのカルチャースクールや老人学校があったかどうか知ら ない。

教習所ではない夜キャバの昼ダンスホール、ここにも教師がいた。
午後早く行くとまだ客は少ない。誘う女性はいない。 チケットを買ってレッスンを受ける。そんな時は習うというより一緒 に踊ってもらうためにチケットを使うのである。
教師は長椅子に並んで座って待っている。その端からお願いしなければならない。も し順番を飛び越して特定の教師と踊りたければ別に指名料を払わなければならない。
なんだこれは、キャバレーそのものではないか。
とにかくそんな教師たちがずいぶん大人の女に感じられたものだ。そして実際に大 人だった。一緒に飲みに行ったこともないとは言わないが。

教習所とダンスホールの違いは生バンドのあるなしなのだが、 広いホールでまばらな客の中、生バンドに乗って踊るのは花の舞台でもあった。スローとかクイックとかタンゴとか、大きな踊りが映えた。本 当に広いホールだった。

卒業以来ダンスホールに行ったことはない。 キャバレーのホールがなくなってからきちんとダンスを踊ったことがない。



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学芸大学駅のダンス教習所はどこだったか、とのお問合せを頂いた。
むつかしいことを言われても困ってしまう。祐天寺だったかもしれないし都立大学 だったかもしれない。
ダンスを習ったのは東京女子大だったとのお便りもあった。女子大でダンス講習が あったこと自体、ダンスが紳士淑女の素養だったことを示している。
津田塾や御茶ノ水、聖心でもあったのかどうか知らない。 小生はもっぱら教習所やダンスホール通いの巷の子だったから。
 

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ビリヤードの話である。
ビリヤードは紳士淑女と関係ない。まったく軟弱な徒のヒマつぶしであった。
あの頃、玉突き屋にはお姐さんというよりおおおばさんがいて、点が入るごとに独特 の調子で点数を読み上げてくれるのであった。
あのアンニュイにひたりたくて玉突き屋に通ったのかもしれない。
当時の玉はもっぱら四つ玉だった。ポケットの台はなかった。
ポール・ニューマンのハスラーはもっと後になってからの映画である。

ある朝、例によって家を出たものの学校はあまりに遠い。新宿で降りて、一人玉を突 いていた。新宿末広の前の道をちょっと二丁目の方に行ったあたりであった。
アメリカ兵が二人入ってきた。いや兵隊ではなく士官だったろう。 そんな朝早くだから朝帰りだったのかもしれない。少し酔っていたと思う。
どこでどうなったのか、その一人と賭けて突くことになった。
50点先取が勝ちで、掛け金は今の金で500円程度、まあお遊びの賭けである。
立て続けに小生が4,5ゲーム勝った。
白人士官と突いていたのだが、見ていた黒人士官がこそこそと彼に耳打ちした。
と、いきなりキューを投げ捨て、二人ですたこらさっさと走って逃げ出した。
こちらはあっけにとられて走る後姿を眺めていた。
結局2人分のゲーム代、今の金で2千円くらいを払わされて馬鹿をみてしまった。

実はこれが小生の生まれて始めて外人との英語会話であった。
何か判らないが、とにかく条件を取り決めて賭けを成立させたのだ。
それまで英会話を習ったことはない。身に付いていたのは受験英語だけである。 英語ってやさしいなと思った。
これがいけませんでしたね。
すっかり英会話をなめてしまって、その後まともに習うことをしなかった。しゃべろ うと思えばいつでも喋れるよ、くらいに考えていた。
だからいまだにきちんとした英語を話すことが出来ない。

 

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