<<< 回顧シリーズ>>>

#3−麻雀、雀荘  030502−13


さなみ(5月の波)の中を伊東から下田まで走った。
本日天気晴朗なれど波高し。
昨日までの南がならい(北東の風)に変わったのはいいが、強すぎた。
12,3メートルの風、波高4メートル、低温、6時間、疲れた。

ダンス、ビリヤードときたら麻雀のことを書かざるを得ない。
わが生涯、概算したらこれまでに2万時間以上を麻雀に費やしたであろう。 これを無駄とみるか?
有意義に使えば竹内理樹君になったか?
いやいやそうではあるまい。麻雀をしなくても竹内理樹君にならなかったのは確かで ある。
世の中には酒に2万時間を費う人もいる。ゴルフに費う人もいる。
小生も麻雀以外にラグビーやヨットに費った時間もある。
個人が経験するのか経験が個人を作るのかの命題があったが、小生は後者の派であ る。

麻雀の遊びについては先に書いたことがある。今回は麻雀をする場所の話にしよ う。
われらR組の悪童の麻雀の師匠は山本明であった。みんな彼の手ほどきで覚えたの だ。ビギナーのわれらには彼の腕前は神業にすら見えたのであった。
彼は桶川から通っていたが、高円寺に彼の兄さんが住んでいて、小さなアパートだっ たがよくそこで麻雀をした。
彼の兄さんは調子が悪くなると隣の部屋に引っ込む。そして出てきて、「おかあちゃ んに触ってきた。これでツクぞ。」とのたまう。
若いわれらには強烈な刺激であった。

西荻窪の土井正の家でもよくやった。
彼は親父(当時どこかの船会社の社長。後に地方銀行頭取。)が相当怖かったらしく いつもぴりぴりしていた。 徹マンの時など、本当に静かに息を潜めてやったものだ。
彼のうちは変わっていて、座敷を二つぶち抜いて卓球台が置いてあった。
夕方、お袋さんが大きな袋を抱えて帰ってくる。聞くとパチンコでとった景品であっ た。

大学に入ってからだが、高校時代の友人O君の家でやったことがある。
そこの麻雀牌は柾目の通った象牙製の素晴らしいものだった。
夜中、トイレに行く途中が女中部屋で、実に豊満な女性が素っ裸で寝ていた。
電気工事をしている家だったが、後年ヤクザに家をとられたと噂を聞いた。

石油会社に入って石炭会社の人と関係するようになった。
某石炭会社の営業部長は無類の麻雀好きで1年に366回やった記録があると豪語し ていた。もちろん毎日やったのだが、正月に昼興行と夜興行があったので366回になったそ うである。
財閥系の大会社の部長さんだから仕事もしっかりしていたのだろうが、大変な人だっ た。こちらはまだ20代の若僧であり、いろいろ人生訓を聞か されたものだ。
彼の自宅でもよくやった。 玄関の脇に専用ルームがあった。彼がすべてサービスをとりしきり、奥さんの顔は見 たことがない。

小生の父母の若い頃は家庭麻雀が流行っていたようだ。母にもその素養があって、た まの家庭麻雀を楽しみにしていた。
小生は早く家庭麻雀から遠ざかったが、思えば親不幸であった。
今、妹の家で母が来ると麻雀を設営してやるらしい。今年89歳の母がそれを楽しみ にいそいそと出かけるのである。
妹よ、有難う。



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好天の駿河湾を3日間のクルーズであった。
このところいつも一人旅(他に航走中の帆影を見ない単独航の意)ばかりでヨット遊 びの衰退を嘆いていたが、今回は下田から清水まで連れの艇があったし、清水には レース艇が何隻か入り、湾内で10数隻のクルージング艇の帆影を視認し、心楽しい 航海であった。
久しぶりでゴールデンウイークを実感した。



さて本題は雀荘である。
多摩湖線一橋大学駅から校門まで300メートルくらい、店屋とて数軒しかない田園 地帯であったが雀荘が1軒あった。そこがわれら麻雀ビギナーの稽古場であった。
山 本明がよくも気長に付き合ってくれたものよといまだに感謝している。
ここで提出リポートの作成を賭けて勝負し、村瀬真に書かせた生物のリポートで優を もらった。芸は身を助く。
雀荘の名前は忘れたが、近くの蕎麦屋は「リンそば」といった。親父が淋病との噂で あった。

当然国立の美登里にもよく通った。
学生時代に麻雀で勝って豪遊したとか負けて困ったとかの記憶はない。本当に小さな お金しか賭けていなかった。
しかし社会に出てから麻雀でお金に困らなかったのはこの時代の修行があったからだ と思う。

如水会館にも麻雀部屋があった。神田の古書街との組合せが気に入っていた。
ある時、夕方にには必ず学校に行くつもりで神田に出、如水会館に寄ったら悪童に捕 まり麻雀になった。黒澤信正がいたと思う。学校には行けなくなりその日が提出期限 の山篤さんのリポートを学校宛に郵送した。すると数日後学務課から返送され てきた。先生は受け取らないという。

小生はその科目の単位がないと卒業出来ない。優等生諸兄と違って余分な単位はとっ ていないのである。青くなって夜先生のお宅にお詫びに行った。先生は玄関先で会っ てはくれたが頑として受け取りは拒否された。「持って来いと言ったのだ。送れとは 言わなかった。」
就職も決まったあとのことで、あんなに困ったことはない。いまだに夢を見る。
それでどうしたか。窮余の中で思い出したのがスペイン語の単位であった。タンゴを 踊るのに少しは役に立つだろうかととったのだが授業に出たことはなく捨てるつもりの 科目であった。もう試験は終わっていたが風邪で試験を受けられなかったと嘘をつ き、先生のお宅をたずねて試験用紙に向かった。答案を見て先生は気の毒そうに「可 でいいですか」と言った。あんなに嬉しかったことはない。芸は身を助く。


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就職して最初の赴任地は仙台だった。
当時の出光東北支店は国分町にあり、平屋建ての大きな社屋の裏に6畳4間のバラッ クがあってそれが独身寮だった。
国分町とは仙台一番の繁華街東一番丁のすぐ裏で、独身寮を出れば即飲み屋通りだっ た。

ここでの麻雀は支店長室だった。
独身者は9人いたのだが、誰かが当番で10時までは事務所にいなければならない。 一人当番させておくのが可哀想だと、みなで麻雀を付き合ってやるのだった。誰かが 当番だから結局ほとんど毎晩ということになる。麻雀が終わってから裏の屋台に飲み に出るのだった。
支店長が毎夜の麻雀に気づいていたかどうかは知らない。遅くまで残業するような野 暮天は当時はいなかった。
勝負の結果は記録して毎月末締めるのだが、新入社員として行った最初の月から2年半3 0ヶ月の仙台在勤中ただの一度もマイナスになったことがなかった。一橋で の薫陶がいかによろしきをえていたかが判る。

次の赴任地出光関東支店は歌舞伎座の隣だった。角に出光の自社ビルもあるが手狭で 歌舞伎会館の3階4階を借りていた。歌舞伎座とつながっているのだから芝居を観る のにも案内嬢に片目をつぶればいいのだった。
雀荘は木挽町か三原橋ということになる。そういう雰囲気の客筋だった。 ただし粋筋は雀荘には現れない。そんなヒマはないのだろう。

取引先の某通運会社の石油部長は大の麻雀好きで、昼間からよく麻雀をしていた。秋葉 原の事務所に行くと部下が窓の下を指差す。見下ろすと隣の旅館で麻雀をしている部 長が見えるのだった。そこに顔出しすることで商談がつながる。そういう時代だった。

皇居前のパレスホテルに事務所が移った。ホテル住まいはなんとなくくすぐったく、 悪い気分ではなかったが近くに雀荘はなかった。八重洲口まで歩くのが遠かった。

千葉支店は千葉栄町のど真ん中にあった。ガソリンスタンド併設だったが、そのスタ ンドの周囲をきっちり三つに分けて、夕方になるとそのそれぞれに街娼が立つのだっ た。縄張りがはっきりしていた。
赴任してすぐは支店に戻ろうとするたびに何人もの客引きに声をかけられたが、1ヶ 月もするとなくなった。街の人間と認められたのだ。

次に愛知・知多製油所の建設に携わった。渉外の仕事は県庁とか県漁連が相手であ り、名古屋支店を足場にした。支店は御園座の2軒隣だった。

その次の 神戸支店は新開地・福原の道一本隔てた向かいだった。山口組のお膝元でなにか事件 があるたびにジュラルミンの盾を持って警官が並ぶのだった。
神戸支店や神戸の出光販売店の連中は福原では遊ばない。雄琴に行く。そして大阪や 京都の連中が福原に来るのだった。
支店では麻雀人口が少なく、大阪や姫路(兵庫製油所)でやることも多かっ た。

清水支店は静岡山梨を管轄していた。仕事として月に2回は富士山をぐるっと周るの だった。
現在伊豆に住んでいるのもその縁が大きい。
昭和30年代、マグロ船が3ヶ月ごとに帰港して水揚げしていた頃の清水港の賑わい は、半年1年も戻らない航海の遠洋化や、船をを海外に置いて船員が飛行機で交代する時代となって過 去のものとなっていた。小生の時に支店を静岡に移した。
遠洋漁業の母港戸田村は長らく陸の孤島といわれた土地で、古い慣習が残っている。 そこの網元親方衆とやる麻雀はまさに古風のままで、場にリャンファン付かない純ア ルシーアルなのだった。麻雀を付き合ったせいかどうか知らないが、毎年春の大祭で 網元だけが入れる神事の場に入れてもらえるようになった。

次は東京青山一丁目である。 昔父の会社がその近くにあったこともあって懐かしい場所だった。
たしかにおしゃれな街だ。黒澤信正がそのファッション発信機能に着目して千代田の きもののサテライトと置いたが、さすがに着物の退勢を回復することは出来なかっ た。
目の前がホンダの本社だが、雀荘でホンダの人間に会ったことがない。

そして丸の内の本社に移った。帝劇の4〜9階が出光本社である。
しかし青山から来ると丸の内が随分田舎臭く感じられた。朝夕の電車の乗降客の雰囲 気がまるで違うのである。 丸の内のOLは申し訳ないがセンスが悪い。
丸の内の雀荘は気合が入らない。みんなサラリーマンだから資金の供給が少なく、場の全体がみみっちくなる。

どうであろう。こうして振り返ってみるとなんと華麗な雀荘遍歴ではないか。



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雀荘の続きがまだある。

昭和60年頃になって山本明が長年の外国暮らしから戻ってきた。
そして彼の市ヶ谷のマンションが雀荘になった。
常連は土井正、岩坂朔郎、安間房仁、三島達夫、森下一義、それに家主の山本明と いったところである。
駅から直近、とにかく便利な場所で、中央線組の土井や岩坂は日付が変わってからで も泣きを入れて、そして悠々と帰っていくのであった。
小生はタクシーで帰るか、泊めてもらった。ベランダに朝、雀がきた。

実はこの頃、50才前頃から小生は付合い麻雀をやめたのであった。
まず社内の人間との麻雀をやめた。これはほとんど社内交際をやめることを意味す る。
ついで社外、営業上の付合い麻雀をやめた。可処分所得は減った。
そして市ヶ谷雀荘の麻雀だけが残った。

何故やめたか。
麻雀に時間を費やすことが勿体ないと思うようになったのである。
孔子さまは五十而知天命とおっしゃったが、小生は五十にしてやっと小博打に興じる 馬鹿らしさを知ったのであるから、本当の小人である。

長年の付合いで麻雀はわが本業の如くであったが、考えてみると今ではもうヨットと の付合いの方が長くなっている。

 

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