これは三河御津マリーナの建設と運営に関して、私・森下が当時まとめた記録です。

基本的に原文のままで、現在での所見は赤字で付記します。      2010/9 黒潮丸・森下一義
 

三河御津マリーナの建設と運営

 

はじめに

三河御津マリーナは、出光興産株式会社において1988年頃より検討が始まり、90年8月に出光社内で土地取得折衝の開始が承認され、その後港湾計画変更等の手続きを経て92年5月工事着工、93年10月に完成し、出光マリンズ株式会社の運営により現在に至っています。

 ここに、異業種から新規事業に進出するまでの経緯、立地決定の経緯、マリーナ建設に関わる法規制、マリーナ設計上の問題点、開業、運営等について、私が自ら関わったことをまとめてみました。

 今後、新たな事業を企画する人のために、あるいは一般にマリーナの建設・運営に関心を持つ方々に、いささかでもご参考になれば幸いです。

 かく申す私は、出光興産に入社して以来もっぱら営業畑を歩いてきた根っからのオイルマンです。
 たまたまディンギーからセーリングクルーザーと40年以上ヨットに乗り続けてきた経験を買われ、このプロジェクトの担当を命じられました。
 幸いにして事業計画の立案から、土地取得折衝、官庁折衝、漁組折衝、設計、建設、組織作り、人員採用、営業活動、運営と、マリーナに関わる業務のすべてを一貫して担当する得難い経験をすることが出来ました。     

 この事業を実現させた最大の原動力は、愛知県および地元に対する出光興産株式会社の絶大な信用(具体的には 名古屋支店、愛知製油所、名古屋油槽所、蒲郡油槽所、その他出光全般の活動)ですが、私個人の長年にわたるクルーザーオーナー歴や泊地遍歴、知識・人脈の蓄積、およびマリーナ建設にかける熱意が、折衝にあたった私のいささかの人物保証になったかと考えています。 

 93年10月に開業以来、三河御津マリーナは順調に営業を致しております。おかげさで、いいマリーナだとのご好評を頂戴しています。海にご関心のある方は、ぜひお立ちより下さい。
 デッキの上で、風に吹かれながらお話を致しましょう。

 

95・4

出光マリンズ株式会社

常務取締役営業・開発担当

三河御津マリーナ所長

森 下 一 義


布施田水道を帆走する筆者 1980年

 

 


1993年10月、開業直後の三河みとマリーナ全景

 

Home ページTop 1-御津マリーナ建設の経過 2-なぜマリーナか 3-マリーナ建設の環境
4-マリーナの事業計画 5-マリーナの許可 6-基本設計 7-ポンツーン 8-建設工事
9-運営の検討 10-マリンクラブ 11-社員採用、教育 12-開業  ページ末尾

 

目次

 

1.三河御津マリーナ建設の経過

2.なぜマリーナか

 2−1、なぜ石油会社がマリーナを作ったのか

 2−2、なぜ出光興産がマリン事業に進出するのか

 2−3、三河御津マリーナの開発コンセプト

3.マリーナ建設の環境

 3−1、マリーナ計画時の環境

 3−2、マリーナ建設の歴史

 3−3、マリーナと会員権

 3−4、御津用地の要目

 3−5、土地取得の経緯

         ・蒲郡油槽所跡地
                     
・御津用地の紹介
                     
・御津用地の由来
                     
・県との折衝
                     
・スズキとの配分
                     
・事業計画の提出、法手続き
                     
・土地の価格
                     
・土地譲渡契約

4.マリーナの事業計画
          
4−1、蒲郡油槽所跡地の事業計画
          
4−2、御津マリーナ事業化基本計画(90・2)
          
4−3、仮称御津マリーナ基本計画書(90・5、マリナス開発)
          
4−4、御津マリーナ事業計画(90・7)
          
4−5、御津町<御幸浜分譲地>におけるマリーナ事業計画(90・8、愛知県提出)                      
     
4−6、バプル崩壊。事業性の再確認(91・5)
          
4−7、出光社内における「御津マリーナ事業計画」承認(91・11)

5.マリーナの許可
          
5−1、公有水面埋立法
          
5−2、港湾法
          
5−3、三河御津マリーナの港湾計画変更
          
5−4、三河御津マリーナの都市計画変更
          
5−5、漁業補償
          
5−6、建設計画、環境保全計画
          
5−7、公害防止協定

6.基本設計
          
6−1、設計会社の選定
          
6−2、海域施設
                     
・防波堤の位置
                     
・マリーナの水深と浚渫
                     
・防波堤の高さ、形状、構造、静穏度
          
6−3、港内レイアウト
          
6−4、海と陸の繋がり
          
6−5、建物
          
6−6、修理工場
          
6−7、給油所
          
6−8、照明設計

7.ポンツーン
          
7−1、タイプの選定
          
7−2、ポンツーンと杭
          
7−3、メインウオーク、フィンガー、ヘッダー、水路巾
          
7−4、パワーポスト

8.建設工事
          
8−1、出光エンジニアリングの起用
          
8−2、業者決定
          
8−3、土捨て場
          
8−4、実施設計、見積もり、減額作業
          
8−5、建設工事
          
8−6、植栽
          
8−7、家具選定
          
8−8、初入港
          
8−9、火入れ

9.運営の検討
          
9−1、運営会社設立
                     
・社名
                     
・本社所在地、資本金 ほか
                     
・事業目的
          
9−2、保管契約
          
9−3、保管
      
9−4、修理工場

          
9−5、レストラン
          
9−6、ショップ、PW
          
9−7、安全管理規程
          
9−8、事務管理システム

10.マリンクラブ
          
10−1、マリンクラブとは
          
10−2、出光マリンクラブのシステム
          
10−3、募集活動
          
10−4、クラブ艇について
                     
 ・クラブ艇保有の方法
                     
 ・クラブ艇の選定
                     
 ・クラブ艇の命名
          
10−5、マリンクラブ艇の運航
                     
 ・運航管理規程
                     
 ・船長とクルー
                     
 ・プレイスケジュール
                     
 ・プレイスポット
          
10−6、収支採算

11.社員採用、教育
      
11−1、学校まわり

          
11−2、ハーバーマスター探し
          
11−3、マリーナ巡り
          
11−4、集合教育

12.開業
          
12−1、開業
          
12−2、竣工式

 

 

 

コラム

        南の島と星の数

        スペースセールカップ

        船の食事−西瓜物語

        最大風速と最大瞬間風速

        僕の装備

        三河御津マリーナ第1船入港

        マリーナに関わるトラブルの事例研究

        開業のご挨拶

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1.三河御津マリーナ建設の経緯

87・12  三河湾内蒲郡市にあった出光蒲郡油槽所が閉鎖された。

88・5  同油槽所隣りにヤマハ蒲郡製造鰍ェあり、ヤマハより 跡地購入の中し入れがあったが断オ)る。

 88・7   出光タンカー鰍ェ跡地活用および余剰船員活用のため、蒲郡油槽所跡地にてマリーナを建設・
      運営することを提案した。
      
この当時全社的に新事業開拓の空気が強かった。

88・10  ヤマハ子会社であるマリナス開発鰍ノフィジビリテイスタデイを依頼した。

89・3    事案を出光興産マターとして業務部が担当することとなり、森下がプロジェクト担当として
      着任し、蒲郡油槽所跡地でのマリーナ開設の活動を開始した。

89・9    愛知県より、蒲郡油槽所跡地はマリーナとして不適の回答があった。

89・11  ヤマハより同湾内直近の御津用地の紹介があった。同用地は県企業庁が造成した工業用地
      の一画にあって水際線をもつことから、かねてヤマハ、スズキ、日産等がマリーナ用地と
      して着目していた
土地である。

                    新規用地の取得は跡地利用のコンセプトから一歩踏み出すものであったが、森下は御津用地での
         マリーナ構想を強力に推進した。

90・2    出光社内にて御津マリーナ事業計画説明。

90・8    出光社内にて土地取得折衝開始 が承認された。

            愛知県土木部に御津マリーナ事業計画提出。

            設計会社指名一日建設計梶B

90・10  御津用地海域のボーリング調査を実施 した。

90・11  地元漁協挨拶まわり を行った。

            ポンツーン等、マリーナ施設について検討を開始した。

91・3    潮流変化環境事前予測実施

            蒲郡油槽所跡地をヤマハに売却した。

91・5    バブル崩壊後の経済情勢下での事業性再評価を行った。

91・6    伊勢湾海難防止協会により、マリーナ建設に伴う航行安全審議が行われた。

            愛知県港湾審議会により、港湾計画の変更が承認された。

91・7    マリーナプロジェクトが総合計画室の所管となり、森下転属。

            杉山社員が着任し(営業担当)、プロジェクト担当が2名となる。

91・8    都市計画変更手続きに着手した − 県企業庁、県土木部、御津町

            環境保全計画作成 に着手した − 県環境部

            建設業者指名 − 東亜建設工業梶A日本国土開発

91・11  出光社内にてマリーナ事業計画承認

92・3    都市計画用途地域変更承認 工専→準工  県都市計画審議会

                   環境保全計画承認  県環境部

           土地売買契約締結  県企業庁

           隣接するスズキとの基本協定締結

            出光マリンズ叶ン立

            浜谷社員着任(総務経理担当) プロジェクト担当3名となる。

92・4    海上工事同意書取得  近隣漁組他

92・5    公害防止協定締結  御津町

            海上工事着工


やっと作業船が動き出した

92・6    柴田ハーバーマスター着任(元出光タンカー船長)

92・7    マリンクラプ会員募集の営業活動開始。

            社員採用活動開始

            陸上工事見積もりにおいて大幅な予算超過があり、一部設計変更をしながら強引に予算内
      におさめた。

92・8    陸上工事着工

93・2    東京,名古屋ボートショーに出展

93・3    三河みとマリーナ第1船入港  (わが WindyHolidayU号)

93・4    新入社員入社 教育訓練開始

93・7    陸上保管艇受入れ開始

            マリンクラブ艇配備始まる

93・8    修理工場運営開始 (ヤマハに運営委託) 

93・9    海上係留保管艇受入れ開始 マリンクラブ試乗会開始

93・10  開業

 

  

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2、なぜマリーナか

2−1.なぜ石油会社がマリーナを作ったのか

出光興産株式会社がマリーナ事業に参画するとになった直接のきかけは、全国各地に油槽所の跡地があったことです。

 石油会社としては石油配給のために全国各地に油槽所を配置し、一時は海岸基地だけで100ヵ所近くもあったのではないかと思います。しかし物流の変化や合理化のための統合で次第に集約され、閉鎖される油槽所が増えてきました。その数は数十ヵ所に上りました。

 わが社はあまり土地を売ることが好きでなく、跡地となってもそのまま抱えているケースが多いのですが、これだけ数が多くなってくるとさすがにその活用策が論じられるようになりました。

 折しも、1987年頃のことですが、わが社の系列会社である出光タンカー株式会社が余剰船員対策に腐心する時期がありました。省エネルギー対策が進んで石油需要が伸び悩み、外国人船員の混乗も始まって余剰船員が大きな問題となったのです。

 その出光タンカーが、自社の余剰船員対策の一策としてわが社の油槽所跡地活用に着目し、マリーナの建設・運営の検討を始めました。海岸の跡地と、船会社と、余剰船員と、まことにうまい組み合わせです。

 その検討が具体的にすすみ、まず蒲郡の油槽所跡地はどうかということになり、蒲郡油槽所を所管する出光名古屋支店からヤマハの子会社である潟}リナス開発にFSを依頼するに至りました。1988年秋のことです。

 もう一つ忘れてならないのがわが社のオーナー出光昭介社長(当時)の着想です。やはり同じ頃、神戸油槽所(神戸市灘区、1万8千坪)の跡地活用が話題になった際、「マリーナなどはどうですか ?」と言われたそうです。この発言からすぐに計画が動きだしたわけではありませんが、オーナー会社であるわが社内ではのちのち事業計画をすすめてゆくうえで大きな意味をもったことは確かです。

 

2−2、なぜ出光興産がマリン事業に進出するのか。

 さて油槽所跡地=遊休地と余剰船員対策からマリーナを作る話になり、マリーナプロジェクトが出来て森下が配属されました。理由はまさに、船遊びなどしている人間は私だけだったからでしょう。

 私自身は長い転勤生活の中でヨットの泊地に悩み抜いてきた身の上ですから、マリーナを作る仕事になんの迷いも疑いもありません。これこそ天命と思いました。

  しかし出光が事業としてとりかかるには、それだけはすみません。今後事業計画をすすめてゆく上で接触するあらゆる方面の人に、なぜ出光がマリーナをやるのか、きっちり説明し納得してもらわなければ事は進まないと考えました。
 まだバプルの時期でしたから、大手の会社がいろんな新規事業に出る話がよくありました。しかし、いきなりとって付けたような事業がうまくいく筈がありません。「そこにニーズがあるから」とか、「儲かりそうだから」だけで始めてはいけないと考えました。

 社内対策もありました。石油販売の本業で苦労している人たちに理解してもらい、将来協力してもらうためには、なぜ出光がマリーナをやるのか、はっきり説明出来なければなりません。そうでないと森下が好きでやっていることだ、で片づけられてしまいます。
 また、取り合えず与えられた使命の蒲郡跡地の活用に止まらず、全国展開にもってゆくめにも大義名分は絶対に必要です。

 プロジェクトは私と、出光タンカーの一等航海士中田君が手伝ってくれているだけの陣容でしたが、母体の業務部と、応援してくれている総合計画室のみんなと議論を重ねました。

 マリーナには給油所が付きものですから「海の給油所の展開」というコンセプトもありましたが、採算性を考えるとそれだけでマリーナを作ることにはなりません。
 またこの時点では出光タンカーの余剰船員問題は解消し、もうマリーナをやる理由として挙げられなくなっていました。

 議論の末まとめたのが、下記の進出理由です。90年7月に社内投資委員会、部長会に説明した「御津マリーナ事業計画」に記載されています。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

    【出光におけるマリーナ事業化の意義】

1)コンセプト

   海のSS

      出光は創業時計量器付配給船を考案して発動機漁船への燃料販売で基盤を築き、その後も日章丸によ
      るイラン石油輸入、徳山に世界最大のシーバース建設(当時)、世界で始めて20万トンを超えるタ
      ンカー出光丸の建造など、海との関わりは深く、常に新しかった。

      いま広がりつつある新しい海の需要に、新しい海の給油所を提案していきたい。

   マリンクラプ

      出光は自らの持つ海辺の資源をいかして新たなマリン空間を創造し、海との新しいふれあいを人々に
      提供し、新たな出光ファンを開拓していきたい。

2)参入理由

   1)成長分野である。
   2)現業との関連              
      ・モータースポーツと石油の関連
      ・生活提案事業との関連
         出光興産    フィットネスクラプ、ヒートポンプなど
         出光石化    製品開発、原料供給など
         出光エンジ    一般工事、リソート設備など
         アポロサーピス    レストラン、リース事業など
         出光クレジット    カードシステム、通販など
   3)海辺の跡地利用
       室蘭、酒田、福井、江東、四日市、神戸、徳島、小倉、長崎、日南、鹿児島・‥
   4)イメージアップ
       若者の関心、時代の関心
   5)地域開発への付加価値

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

2−3、御津マリーナの開発コンセプト

 開発に限らず、すべて事業をすすめるにあたってはそのコンセプトが非常に大事です。

 もともと油を売る商売をしてきた人間ですから、新規事業とかコンセプトとか、そんな言葉とはまったく無縁だったのですが、コンセプトの大事さをヤマハさんに教えてもらいました。

 当社ではマリーナ建設について最初からヤマハ(窓口はそのマリーナ開発のための子会社、潟}リナス開発)に相談してきたのですが、潟}リナス開発のリポートにはいつも最初に「開発コンセプト」が掲げられます。これにならって「三河御津マリーナ」のコンセプトを作りましたが、今でも何か問題があるとコンセプトに立ち返って判断していることに気が付きます。

 最初は蒲郡油槽所の跡地に建設しようというマリーナ計画でしたから、前面水域が狭い、「工業専用地域」を変更する見込はない等々、非常に制約の大きな計画でした。
 そこで潟}リナス開発が打ち出してくれたコンセプトには、制約条件の多い中でのマリーナ建設の苦心のあとがうかがえます。

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

===開発コンセプト(蒲郡跡地)=== 

−−−内容省略−−−

註:油槽所跡地の利用で、港湾計画や用途地域の変更も望めなかったため、単なるボート置き場以上の計画は立てられなかった。 

  

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

          ===【三河御津マリーナのコンセプト】===

註:マリナス開発のアドバイスを受けながら開発コンセプトをまとめた。現在の運営に引き継がれている。

 1、恵まれた環境と、たっぷりとした占用水域をいかした、ステータスのあるプライベートマリーナとする。
   ・水面係留主体
   ・大型艇に対応

 2、できるだけ多くの人に聞かれたマリーナとする。
   ・ビジター(海上、陸上)を歓迎する   

   
・多くの人々が楽しめるようマリンクラブの展開

 3、海域の安全に貢献する。
   ・修理機能を充実する
   ・救難センターの実現

 4、御津マリーナを橋頭堡として全国展開につなげてゆく。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 

 

 若干の解説を加えますと、1の「プライベートマリーナ」とは3セクとか他社との合弁事業ではない、出光オンリーの事業であることを表明しています。関係各方面に説明してまわる時点では、このことも大事な要点でした。

 2の「聞かれたマリーナ」は三河御津マリーナの原点です。ユニークなセンターピアや各施設の一般への開放もこのコンセプトから生まれました。
註:この当時マリーナは完全な売り手市場で、どこのマリーナもビジターを受入れる姿勢 ・施設はなかった

 3の条項には多分に官庁折衝、地元折衝への配慮があります。それと蒲郡跡地では修理機能を謳うしかなかったのでこのことを強調していましたが、それを引きずっている面があります。また「救難センター」は地元の一部にあった構想を受けたもので、現在スズキと共有の「救難桟橋」として具体化しています。

 4はわが社における三河御津マリーナの位置づけです。御津にマリーナを作ることだけが目的ではなく、広くマリン事業を展開する第一歩であると言っています。ただ三河御津マリーナがこれだけ立派なマリーナとして完成した現在、「橋頭堡」という言葉は矮小に過ぎたかなと思っています。
註:全国展開のコンセプトは完全に立ち消えている。

 

 

 

゛     <コラム> 南の島と星の数          黒潮丸

  イミダスの付録の地図に世界各国の国旗が出ている。

  オセアニアとして11の国があった。その国旗を見ていて気がついた。なんて星が多いんだ。11ケ国のうち6ケ国の国旗に星が使われている。そしてその星の数が多い。

  南十字星は縦に長い菱形で、右の懐に小さい星かーつあるから全部で五つ星を使う。オーストラリア、西サモア、パプアニューギニアが5個の南十字星を国旗に使っている。ニュージーランドの国旗は四つ星の南十字だ。ソロモン諸島のは何か分からないが五つ星だ。ツバルのはなんと九つも星が流れている。天の川みたいだ。

  そんなこんなで11ケ国合計で35の星か光っている。南の島の人々はどうしてそんなに星が好きなのだろうか。太陽があまりに明るいから、かえって星に心をひかれるのだろうか。

  他を見る。
  アフリカは50国のうち21国が星を使い、29個の星がある。

  アジアは23国で6国が14個の星を使っている。アジアの特長は太陽が多いことだ。8個もある。

  中東は7国で10個だ。中東の特長は一つ星だ。これはどの星をイメージしているのだろう。
  砂漠の民がすがるのはどの星なんだ? 我々海に囲まれ、湿潤の地で仰ぐ嵐とは違う星のような気がする。

  国旗として白地に赤丸を一つだけ描く国民の心情と、ブルーの地に九つもの星を描く国民の気持ちは、やはり遠く離れているのだろうな。

 

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3.マリーナ建設の環境

3−1、マリーナ計画時の環境

 わが社がマリーナの検討をはじめた87〜89年当時はバプルの最中にあり、ボート&ヨットは目覚ましく大型化し、これまで海の経験のないバプル紳士が、次々といきなり大型ボートのオーナーにてる時代でした。そのためヨット&ボートの泊地は極端に払底し、完全に売手市場を形成していました。

 公営マリーナとして死亡承継すら認めない江ノ島マリーナの名義借りが5千万円とか、葉山・シーボニアの係留権に至っては7千万から億の声を聞くほどでした。

 そうした状況を背景に、国としてもリゾート法とか、運輸省の「Marine99計画jといろんな施策を打ち出しました。その当時よく使われたのが次の数字です。

く世界各国のプレジャーボート普及率>

   国       1隻当たりの人口-

北欧各国                                                       7

アメリカ                                                      17

オーストラリア                                          32

フランス                                                      82

イギリス                                                      91

西ドイツ                                           115

日本                                     462

 

 

 

 

<マリーナの需給見込み>

保管形態

1987

2000

増減

マリーナ

5万隻

18万隻

13万隻

PBS

ハローマイボート

小計

33

28

その他の保管

−1

放置艇

12

−12

合計

25

40

15

(ここで「ハローマイボート」とは陸上倉庫にボートを保管し、オーナーの要請でトラックで海に運ぶ構想であったが、テスト段階で利用者に嫌われ計画は放棄された。)

 

この時期のボート&ヨットの生産および輸入の隻数を、日本舟艇工業会会報から拾った数字が下記の通りです。
 90年(平成2年)にピークを打っていますが、その後の不況感でもっと下がっていると思われた昨年(93年、平成5年)の数字もまだピーク時の76%を保っており、86、87年を上回っています。
 またヨットの輸入には一部ボート業者や個人輸入の数字が含まれず、じっさいにはもう少し多いと思われます。


 

        <ボート&ヨット生産・輸入隻数>

         (全長6メートル以上)

 

年度      ポート       ヨット   合計    前年比

     生産   輸入   生産  輸入

85 2634隻  37隻 272隻  3隻 2946隻101.3%

86 2337  127  276  17  2757  93.6

87 2732  188  377  18  3315 120.2

88 5275  371  350  28  6024 181.7

89 5619  513  445・ 77  6734 111.8

90 6151  905  475  62  7593 112.8

91 6404  677  475  80  7336  96.6

92 5298  553  278  55  6184  84.3

93 5305  220  183  42  5750  93.0

 これだけ急激なボートの供給増の殆どが新たな泊地を必要としたのだから大変です。新設のマリーナ、艇置場は即座に一杯になるような状況が続きました。

 88年4月にオープンしたNKK(日本鋼管)の横浜ヨットヤードは、製鉄所用地の一画をアスファルト舗装しただけの置場でしたが(クレーンは既設を利用)、1年以内に110隻が満杯になりました。当初150隻収容の予定でしたが、50フィート艇が10数隻も並ぶという予想以上の大型化で110隻しか収まりませんでした。このような陸置きの艇置場が三菱重工横浜など、あちこちで開発されました。
註:マリーナなどとはとても云えない工場現場の中の剥き出しの置き場があっという間に満杯になった。今ではとても考えられない。

 90年春に仮オープンした係留型の小樽マリンウエーブは、冬には雪が積もるという条件にもかかわらず秋まで200隻が埋まりました。

 

3−2、マリーナ建設の歴史

 日本の本格的なマリーナ建設は、昭和39年の東京オリンピックのために作られた湘南港江ノ島ヨットハーバーをもって始まりとします。それまでは自然条件を活かした船溜まりの一画に屯ろするような、細々としたものでした。本牧にあった横浜市民ヨットハーバーとか、妙法寺川の旧須磨ヨットハーバーなどはヨットハーバーであり、マリーナではありませんでした。

 その後昭和40年代に入って一つの大きな盛り上がりを見せます。佐島(40年)、シーボニア(42年)、サントピア(48年)、日産マリーナ東海(49年)など、名だたる民間マリーナがこの時期に建設されました。しかし、その直後に襲った二度にわたる石油ショック(昭和48年と53年)が、これらの新設マリーナに潰滅的打撃を与えました。石油価格は10倍、20倍と高騰し、プレジャーボートに油を焚くのは非国民とされました。

 昭和50年代を通して、マリーナには気息えんえんたる状態が続きました。森繁久弥氏が作った佐島マリーナが日産に経営委譲されたのもこの時期です。とても新たなマリーナを建設する元気などどこにもありませんでした。

 こうして15年間の新設マリーナ空白期が続き、昭和60年代になって急激にブームに見舞われたのです。

 次ページの表は90年末時点で調査した全国マリーナの保管隻数によるランキングと、その陸城・水城の面積です。ここに出ているのは全部バブル期以前に建設されたものですが、一見してそれまでの民間マリーナがいかに水域の利用に関して限定されていたかが窺われます。係留型のマリーナは須磨、淡輪、小樽など、公共か3セクに限られています。

 バプル期以降、政府の「リソート法」「Marine99計画」等の後押しもあって、全国各地でマリンリソート、マリーナの計画がたてられました。今完成しつつあるのはその生き残りです。

 マリーナ建設には制度資金を含めて促進策がとられ、水域の利用もしやすくなりました。この表以後、新門司マリーナ、東京都・夢の島マリーナ、金沢八景島マリーナ、大阪北港マリーナ、博多マリノア、三重・河芸マリーナ、三河御津マリーナ、新西宮ョットハーバー、和歌山マリナシテイなど、多くの係留型マリーナが完成しています。

 また香川・仁尾、福島・小名浜のように、国体ヨット競技の会場が係留施設を持ったマリーナとして整備されるようになってきています。

 今後の動向としては漁港における漁船とプレジャーボートの共棲(その一形態としてのフィッシャリーナなど)が進むものと思われ、マリンスポーツの底辺は確実に拡がりつつありますが、マリーナの経営にとっては再び厳しい時代となるでしょう。

 

 

−−−全国マリーナランキング---  

ボート&ヨット−クルーザー保管隻数による

1990年 ヤマハ調べ

順位

名称

所在地

運営形態

保管隻数

  面積 千u

 

水域

陸域

合計

 

出光御津マリーナ

中部

民間

350 計画

54

25

89

 

スズキ御津マリーナ

中部

民間

290 計画

38

11

49

1

シーボニアマリーナ

関東

民間

357

9

51

60

2

須磨ヨットハーバー

関西

公共

343

39

32

71

3

小樽港マリーナ

北海道

3セク

296

69

23

92

4

ヤマハマリーナ浜名湖

中部

民間

251

14

11

25

5

富士マリーナ

中部

民間

230

5

15

20

6

淡輪ヨットハーバー

関西

公共

222

25

30

55

7

逗子マリーナ

関東

民間

221

5

165

170

8

日産マリーナ東海

中部

民間

213

10

33

43

9

葉山マリーナ

関東

民間

210

10

13

23

10

JOB播磨マリーナ

関西

民間

210

15

4

19

11

ヤマハマリーナ琵琶湖

関西

民間

172

10

15

25

12

サントピアマリーナ

関西

民間

145

23

23

46

註:現在は様変わりであるが、20年前の記録としてご覧ありたい

 

 

3−3、マリーナと会員権

 バブルの時期、世の中は狂った銀行を中心におかしな時代でした。リゾート開発、特にゴルフ場開発に絡んで会員権商売が狂想曲を奏でました。茨城カントリー事件などに見られるように、計画だけで多額の資金が簡単に集まる時代でした。この事件の影響が92年の「ゴルフ場等に係わる会員契約の適正化に関する法律」につながってゆきます。

 圧倒的な売手市場を背景に、マリーナ開発においても会員権を販売しようとの考えが当然出てきました。しかしこのアイデアはバプルに間に合いませんでした。
 マリーナ開発において高額な会員権販売が見られなかったのは次の理由だと考えます。

1)日本における本格的なマリーナ建設は、昭和39年の東京オリンピックに向けた江ノ島マリーナの建設であったが、ここは完全な公共マリーナであり、会員権どころか入会金、保証金すらない施設であった。その後建設された各マリーナでは基本的に江ノ島のシステム、契約内容をモデルとした。

2)昭和40年代になって民間のマリーナ建設が相次いだが、マリーナの需給もまだそれほど逼迫したものでなく、幸いにして会員権商売は馴染まなかった。

3)ゴルフブームの中で会員権商売が定着していった昭和50年代に、マリーナの建設はほとんど無かった。

4)マリーナ建設には埋め立て工事を伴うことが多く、公有水面埋立法により純民間には埋立認可が下りない。そのためマリーナ建設は公共または3セクにならざるを得ない面があり、その結果会員権商売は流行らなかった。

 それでも会員権販売による資金調達の魅力に抗しがたく、60年代および平成に入ってからの計画には高額な会員権を前提としたものが多くなりました。その多くはバブル崩壊とともに計画そのものが崩壊していますが、そのまま出来てしまったのが次の2例です。
 92年10月に開業した長崎・ハウステンボス・マリーナと、93年4月に開業した横浜・金沢八景島シーパラダイスマリーナです。ともに契約に際し2〜3千万円のイニシャルチャージを必要とする画期的なマリーナでした。わが社も含め、マリン業界がこぞって注目しました。しかし両者は遅れてきた少年だったのでしょうか、経過は思わしくありません。両者とも94年9月現在、水面は寥々として空っ風が吹き抜けています。

 

3−4 御津用地の要目

【御津用地の要目】

 1)所在地    愛知県宝飯郡御津町御幸浜1号地

 2)面積     2.5ha(約7500坪)

 3)所有者    愛知県企業庁

 4)価格     約10億円

 5)用途地域   工業専用地域

 6)地先埋立計画 本用地の南側地先水面を将来埋立る計画がある

 7)水際線    用地南面に70m、西面に370mの水際線を有する

 8)交通     JR「愛知御津」駅より 2km

          JR新幹線「豊橋」駅より 10km

          東名高速「音羽IC」より9km、「豊川IC」より13km

 9)制約条件   使用目的 建設計画に基づく利用に限られる

          操業時期 土地譲渡後3年以内

          譲渡制限 10年間は売却できない

          緑化義務 20%

 10)マリーナとしての利用について

          港湾計画 マリーナとして港湾計画変更の要あり

          都市計画 用途地域を変更の要あり

          漁業権  当該水域の漁業権は消滅している

 

【御津の立地特性】

 1)地政的に
  ア、日本の中央に位置し、全国展開の中核基地となりうる。
  イ、名古屋〜浜松(1時間半以内)に、400万人の後背人口がある。
  ウ、東名高速、新幹線から至近距離にあり、交通至便。
  エ、風光明媚、気候温和。海域静穏。
  オ、充分な水際線をもち、かつ将来買い増しの可能性のある土地である。

 2)プレイゾーンとして
  ア、三河湾内に寄港地として多くの島、漁港、港がある。
  イ、トローリングその他、各種の釣り場が多い。
  ウ、伊良湖、浜名湖、伊勢志摩等、近くに観光地が多い。
  エ、ポート&ヨットの集積度が高い。

 3)建設条件
  ア、漁業補償がすんでいる。
  イ、水深が浅く、防波堤の建設コストが安い。

 

3−5、土地取得の経緯

3−5−1、蒲郡油槽所跡地

 蒲郡市浜町にあった蒲郡油槽所が、物流の変化により87年の暮れに閉鎖されました。
 翌88年、跡地に隣接するヤマハ蒲郡製造鞄aより蒲郡市を介して上地譲渡の申し入れをうけましたが、跡地を
 管轄する出光名古屋支店は自社で活用を図るとして譲渡をお断りしました。

 その頃、出光タンカー鰍ェ蒲郡跡地を活用してマリーナを建設・運営する検討を始め、出光興産総合計画室と出
 光名古屋支店に話を持ち込みました。名古屋支店は跡地活用策として関心を持ち、ヤマハの子会社である潟}リ
 ナス開発にマリーナとしてのフィジビリティスタデイを委嘱しました。

 FSの結果、可能性ありということで、89年3月出光興産業務部内に事業化推進のプロジェクトチームが出来
 ました。メンバーとして配属されたのがヨット経験を買われて情報システム部より転属した森下と、出光タンカ
 ーで新規事業開発をしていた中田一等航海士でした。チームは間口80メートルの水際線と既存の石油荷役桟橋
 を利用して5千坪の土地にボートを保管する陸置き型マリーナの絵を描き、関係先との折衝に入りました。この
 計画での事業費は6〜7億円の見込みでした。

 しかし89年9月、県からマリーナとして立地不可との判断が出されました。理由は、近隣の油槽所や工場が操
 業中であり、またそのための航路もあり、プレジャーボートの出入りするマリーナの建設は認められないという
 ことでした。また陸上部分も、用途地域工業専用地域を解除あるいは変更する見込はたちませんでした。

 工専のままで、限られた占用水域で、クラブハウスもレストランもない単なる小型船舶の修理工場ならやれたか
 もしれませんが、それでは出光興産が新規事業として事業開始する意義が薄いものでした。


3−5−2、御津用地の紹介

 蒲穎他捨所跡地のマリーナ転用不可となって、プロジェクトチームの目的はある意味で終了したともいえました
 が、森下は全国の油槽所跡地の活用を使命と思っていましたので、これで使命終了とは考えませんでした。当時
 の業務部長が蒲郡跡地を諦めるに際して、「こんなものしか出来ないでは仕方がない。他に適当な土地はないの
 か。」と言われた言葉をたよりに、近くの土地を探すことにしました。
 それまでに三河湾の条件の良さを充分に認識していましたのでマリナス開発に相談したところ、ほとんど即座に
 御津用地の話が出てきました。
 ヤマハが現在県と折衝中の土地があるが、そこはどうかということでした。

 ヤマハが御津用地を出光に紹介したのは、御津用地の開発計画が防波堤建設の点で行き詰まっていたこと、御津
 の数キロ西寄りに大塚計画(現在の蒲郡ラグーナ計画)が動き始め、その方により魅力を感じたこと、および出
 光蒲郡跡地の取得に執心していたことによります。


3−5−3、御津用地の由来

 御津用地は、愛知県企業庁が愛知県宝飯郡御津町地先海面に工業用地として造成した土地、御津一区(約6万
 坪)のー・角にある約1万1千坪の土地です。西に面して500メートルの水際線があります。

 御津一区は85、6年頃より売り出されましたがバブルのちょっと前であり、売れ行きは必ずしも芳しくなかっ
 たようです。加えて、地元の有力者が水際線に着眼してマリン関連事業開発の構想を持ち、それにヤマハ、日
 産、スズキなどが絡んでの動きがあり、県としてもマリーナ用地としての検討を始めていたのです。

 ただ、どこも防波堤等の基盤整備を県に期待しており、それを開発の条件にしていたので進展が止まっていまし
 た。
 ヤマハは防波堤問題で躊躇していたところ途中で大塚計画を知り、そちらに乗り換えようとしていました。日産
 は地元の東海日産をたてていましたが、防波堤を自前で作るのなら下りる気でした。スズキも自社だけで御津用
 地全部を開発するつもりはありませんでした。

 ここで地元の有力者とは、地元「下佐脇漁業組合」の組合長で当時県会議長、後に愛知県漁連の会長となる長木
 一氏のことです。氏は漁民の代表の立場でありながら、時代の趨勢としてプレジャーボートの増加にも理解を示
 し、かねて漁業とマリンレジャーの両立を考えておられました。
 プレジャーボートが増えれば事故や漁船とのトラブルも増える、そのための救難センターを作りたいとの意向も
 お持ちでした。

 この下佐脇漁協と出光は長く石油の取引関係があり、そんな関係ですぐに長木氏の信頼を得ることができたのが
 本計画の推進に大きな力となりました。

 

3−5−4、県との折衝

 県との折衝はまず士木部港湾課と始まりました。本来なら企業庁との折衝になるはずですが、この土地をマリー
 ナに出来るかどうかの検討が必要で、県内部で港湾課マターに移されていたようです。

 港湾課に対し次の申し入れを行いました。「蒲郡油捨所跡地でのマリーナ建設は不可と言われたが、御津1区に
 ついてヤマハ殿から紹介をうけた。御津1区でのマリーナ建設は可能か?」
 
 港湾課の第一声はこうでした。「あの土地は工業用地として造成したが、地元から『御津の海岸は昔は美しい白
 砂青松の浜であった。埋め立てて工業用地にしてしまったが、もう工場は結構だ、せめて西側の土地だけでも、
 水際線を活かしたマリンレジャーの用地として考えてくれ。』との声が出て、工場用地として売るのは抑えてい
 る。出光はどんな計画を持っているのか。」そして、「本気でマリーナをやるのか?」と聞かれ「やります」と
 答えました。

 社内的にはまだ承認を得ていませんでしたが、やる意思がなければ話は始まりません。防波堤を作り、救難セン
 ターを作るのが条件なら、その条件での土地取得と事業計画を社内で承認してもらおうと考えました。

 県との折衝は、ほとんどこの段階ですべてが決定したような気がします。後はいろいろの手続きを踏むための時
 間だけを追っていたような気がします。

 この折衝に先立って、出光興産が名古屋港に保有していた土地についての話し合いが、県および名古屋港管理組合と出光名古屋支店との間で進んでいました。県が高速道路の用地として出光の土地を譲って欲しいというのです。長らく大きな油槽所として運営していたのですが、昭和50年に愛知県知多市に出光愛知製油所を稼働させて以来、機能縮小していた名古屋油槽所用地です。県の要請に対し、出光は販売拠点用などに使える代替地をお願いしていました。

 「そういえば出光は蒲郡でマリーナをやりたいと言っていたな。代替地として御津1区はどうか。あそこならマリーナをやれるかもしれないぞ。」こんな話が、港湾課と接触するのと前後して出てきました。

 結局名古屋油槽所用地の一部3万5千坪を県に譲ったのですが、このことが御津にマリーナ用地を確保する大きな要件になったと思います。つまり名古屋や蒲郡で土地を保有し油槽所を運営していたこと、愛知県内に製油所を稼働させていること、また地元の漁業組合と長年の取引があること等、出光の総合力がこの土地の入手を可能にし、マリーナ建設を可能にしたのです。

 

3−5−5、スズキとの配分

 県は御津一区の1万1千坪の用地を全部出光に譲渡する方針を固めたようでした。ところがそれではスズキ鰍ェ納まらなくなりました。「うちの方が早くから折衝していたのに、出光に全部とはとんでもない。」

 日産(東海クルーザー)の方は防波堤を自前で建設する問題で下りることが確認されたのですが、スズキは頑として譲りません。すったもんだがあって、結局スズキ3:出光7で決着し、土地を分けることになりました。

 この配分が決まった時、双方関係者が集まって一席祝杯をあげたのですが、土地配分が決まることはマリーナとしての方向付けも出来たということですから、本当に嬉しく、ホッとしたことを覚えています。現在スズキとは防波堤等の施設を一郎共有し、隣合うマリーナとして仲良くやっています。

 

3−5−6、事業計画の提出、法手続き

こうして県の方針も決まり、当方も社内の意思確認を行って「事業計画」を提出しました。90年8月のことです。このことは別項に述べます。

県は港湾計画変更等の行政手続きに取りかかりました。
結局、91年6月に「御津地区にマリーナを計画する」との港湾計画の変更が決定しました。
その後、用地の都市計画用途地域を「工業専用地域」から「準工業地域」に変更する手続きが、92年3月までかかりました。

 

3−5−7、土地の価格

御津1区がはじめ売り出されたのは85、6年頃ですが、当初は坪8万円程度だったようです。ところが企業庁の土地は半年ごとに建値が上がるのです。市況によって3〜5%上がります。

それで当社が折衝を姶めた89年下期には10万円弱だった価格が、いよいよ契約を結ぼうという91年下期には12万円台になっていました。
加えて、「準工業地域になったから上げる」とか「水際線がある土地は高くする」と言いだしました。これは大変です。社内ではそんな予算になっていませんし、事業計画がおかしくなります。大車輪で反論しました。

「準工にはなったがマリーナ建設の目的に限られ、住宅は建てられない条件になっている。」
「水際線というが護岸は護岸の作りになっておらず、水域も殆ど水深がない場所である。浚渫しなければ水際線として使えない。」
「世間一般の地価はもう下がり始めている。」

 いろいろありまして結局坪13万円程度の価格となり、総額10億円の土地となりました。

 

3−5−8、土地譲渡契約

91年度末ぎりぎりの92年3月になって、愛知県企業庁と出光興産鰍ニの間で御津用地の譲渡契約が締結されました。
譲渡契約の内容としては、10年間の目的外使用禁止、3年以内の操業義務、20%の緑化義務等がうたわれています。

 都市計画用途地域の変更、マリーナの建設計画書、環境保全計画書の完成もすべてこの3月に集中する慌ただしい月でした。環境保仝計画書の作成には1年半の時間を要しました。
マリーナの運営会社として「出光マリンズ株式会社」も、この3月に設立登記されました。

 

 

      

       <コラム> スペースセール・カップ      黒潮丸

 

 スペースセール・カップとはコロンブスの新大陸発見500年を記念しての、宇宙を太陽光を帆に受けて航行しようというイベントの計画だ。レースとして成立するかどうかまだ判らない。

 日本からも参加しようと設計が進んでいる。重さ286キログラム、帆の面積が8千平方メートル。月まで250日かかるという。この遅さがいい。モーターポートが油壷から波浮まで1時間で行くのに、セーリングクルーザーだと5時間もかかる。この時間の差が王者の贅沢だ。何万トンもの推力で打ち上げられるロケットではなく、毎秒3.3×10のマイナ4乗という微弱な太陽光を受けて走るとはなんとまた優雅な計画であることか。

  今、地球上の人類は最後の爆発に向かって大増殖を銃けている。その結果として自らの周囲の環境を汚染している。4メートルの歴史を1ミリの時間で汚染し尽そうとしてい。僕はこのような爆発は生物の種としての必然だろうと思っている。生命力があればこその爆発であり、もっと弱いものは爆発の前に滅びる。釈迦にもキリストにも、ホメイニにもアインシュタインにもこの勢いを止める力はない。

 いつか、何かの原因でこの大増殖は終焉を迎えるだろう。それが調和を得ての終焉になるのか、威亡にいたる終焉なのか、僕には判らない。
 ただ人類は終焉の前にもう少しやることをやるだろう.それは食料の増産とエネルギーの開発、そしてスペースの開拓だ。

 いま爆発中ではあるが、どこが限界なのかは誰にもまだ判らない.明治政府の農林大臣に、この国土が1億3千万人もの人口を支えられるとはとても考えられなかったであろう。
 3O年後の孫、ヒ孫は我々が思いもつかないものを食べてやっと地球の上に乗っかっているのかもしれない。

 エネルギーもそうだ。核融合とやらが調子良くて、みんなで朝風呂につかっているか、それとも寒さの夏をおろおろ歩いているか。

 そしてスペースだ。土地を求めてもっともっと山を崩し、海を埋めるだろう.畑を潰すだろう.そしていづれ宇宙に出て行く。

 
何も新しい話ではない。人類はずっとそうやってきた。東南アジアが溢れ、メラネシアにはみ出し、ポリネシアに渡り、タヒチに辿りつき、そしてハワイを目指し、ニュージーランドを開いたのと異なるところはない。

 渡って行く宇宙にどんな島があるのか。楽園に辿りつくのは百人に一にんか、万人に一人か。

 いづれ必ず爆発の終焉はある。それは必然だ。ただしそれは滅亡とは言えない。なぜならそれが種のあるぺき姿だからだ。望ましいとか、悲しむべきとかの次元を超越している。もともと人類は地球に生えたカピなんだ。

 せめてこの美しい地球の寛容に縋りたいことは、大爆発のあとに、せめて5千万か1億のカピを残してやってほしいごとだ
.。   
                                                     90・6

 

Home ページTop 1-御津マリーナ建設の経過 2-なぜマリーナか 3-マリーナ建設の環境
4-マリーナの事業計画 5-マリーナの許可 6-基本設計 7-ポンツーン 8-建設工事
9-運営の検討 10-マリンクラブ 11-社員採用、教育 12-開業  ページ末尾


 

4.マリーナの事業計画

4−1.蒲郡油槽所跡地の事業計画
                           
−−−内容省略−−−

4−2.御津マリーナ事業化基本計画−902
                           
−−−内容省略−−−

4−3.仮称御津マリーナ基本計画書−905 マリナス開発
                                    
−−−内容省略−−−

4−4.御津マリーナ事業計画−907
                           
−−−内容省略−−−

こうした経過を経て、出光社内投資委員会→次長会→部長会→副社長→社長の決裁を得て下記の方向付けが承認された。
             
1)土地取得、用途変更につき必要な手続きを開始することを承認する
             
2)油槽所跡地の活用というより、新規事業としてとらえる。
             
3)事業性について総合計画室で検討する。

4−5.愛知県にマリーナ事業計画を提出−908
                           
「御津町<御幸浜分譲地>におけるマリーナ事業計画」
                           
−−−内容省略−−−

 

4−6.バプル崩壊と事業性の再確認−915

 県に事業計画を提出したのち「ボーリング調査」「潮流変化調査」等の実地調査、漁組への挨拶まわり、施設についての具体的検討が始まり、一挙に多忙になりました。

 しかし世の中はその間にバプル崩壊の道を歩き出していました。

 本当に大丈夫なのか。今度は投資委員会ではなく、総合計画室により徹底的に検証されました。これは「跡地活用というより、新規事業として取り組む」との方向付けを受けて、プロジェクトチームが油槽所用地を所管する業務部から総合計画室に移管されることになったからです。出光興産として、これまでまったく経験のない事業にいよいよ投資するかどうかの正念場ですから真剣でした。また総合計画室とすれば、腐った卵を引き受けては大変だとの思いもあったでしょう。

 結論は「当初方針通り進める」というものでしたが、この時に行ったレビューを現在(95・5)の眼でまた見直してみます。

1)環境変化のチェック
  逆風が吹きはしめた兆しを感じて、この時ボート販売隻数の変化を探りました。
  90年にピークに達したボート販売について、91年5月時点で5%減を見込んだのですが、結局91年は
  97%と3%減になり、いい線を当てていました。

  しかし93年でも販売隻数はピークの76%を維持して86、7年のレペルを上回っているにも関わらず、マ
  リーナとしての景気実感はもっとはるかに悪くなっています。

  これは販売内容が小型艇にシフトしてきていること、新規オーナーが殆どなく買換え需要が大半であること、いいお客であったバブルオーナーがボート遊びから撤退してしまったこと、新設マリーナに限らず漁港での保管拡大など受け皿が増加していること等によります。

2)御津用地の客観的評価
  あらためて土地の価値の評価を行いました。
  この時に挙げた御津用地のマリーナとしての優位性は今でもその通りであり、立地として間違いなかったことを証明しています。

  ア、港湾計画変更により、広い水域占用が期待できる。
     →7万・の水域占用許可をうけた。
  イ、早期認可の可能性。
     →90年8月に県へ事業計画を提出し、港湾計画変更、都市計画変更(92・3)等を経て、93年
      10月に開業に至ったがこの運びは非常に早かったと言われている。
  ウ、三河湾の立地環境の良さ。
     →特に交通の至便さと、湾内に寄港先の多いことのメリットを実感している。
  エ、用地南面の埋立計画。
     →95年中に埋立開始がほぼ決定し、親水護岸の建設、水域占用用地取得等今後の事業拡大の可能性が拡がった。

3)出光三河御津マりーナのコンセプト
  コンセプトの洗いなおしを行いました。そして従来の4項目がそのまま踏襲されましたが、特に下記の点が確認されました。
  ・係留保管を主体とする
  ・大型艇に対応する。
  ・開かれたマりーナを目指す。
  ・全国展開につなげていく。

  このうち、「大型艇に対応する」について、現状で齟齬が出ています。
  その当時、陸上保管に適さない40フ4−ト以上の艇の係留泊地が特に払底し、大型艇の係留桟橋を持てば関東からでも客が呼べるだろうとの見込がありました。また80フィート以上のいわゆるメガョット普及の動きがありました。

  それらの動向を見て50F桟橋、90F桟橋を用意したのですが、この大型桟橋への入艇が芳しくありません。一時、企業が自ら遊び始めた時代に大型艇を保有したのですが、そんな企業は全部撤退して個人の遊びだけの世界に戻ってしまいました。ちらほらと輸入されたメガヨットは、ほとんど海外に売却されてしまいました。

4)競合マリーナの検討
  競合するマりーナとして「ヤマハマリーナ浜名湖」「日産マリーナ東海」の2ヵ所を検討しました。いづれもこの世界の大手の看板マリーナです。しかし2ヵ所とも満隻であり、保管料を同レベルに設定したことで競合相手ではないとしました。

  新規の建設計画として、三河湾内に7ヵ所の計画を数えました。このうち現在計画がストップしているのは1ヶ所のみで、あとは多少の時期づれはあるものの計画進行中です。いまのところ早期認可-開業を果たして時間的優位を保っていますが、入艇のペースが予定よりずっと落ち込み、追いかけてくる各計画の進行状況を脅威をもって見守っています。
註:特にトヨタグループの「ラグーナ蒲郡」が巨大な計画となった。

5)投資レビュー
  設備投資額のレビューを行いました。

  ・海上施設
   90年10月に台風19号が当地方を襲い、建設中であった対岸の海陽ヨットハーバーの防波堤が崩れる事件がありました。これをみて南面の防波堤をブロック積み構造からケーソン式に設計変更し、約2億5千万円の増加となりました。
   また係留桟橋全体を横に繋ぐヘッダーを追加し、シングルスリップを導入したことで1億5千万円増加しました。この260メートルのヘッダーの存在がマり一ナ内を一つに結び、三河御津マリーナの雰囲気の基を作っています。

  ・陸上施設               レ
   マリナス開発に依頼して実施したオーナー実態調査にもとづき、レストラン、口ッジを縮小し、プールを割愛しました。
   一方クラブハウスを増床し、ハーバー全面を堅木による板張りデッキとし、さらに護岸から一段下げた親水デッキを設けるなど、アメニティに配慮しました。

  こうして設備投資額は約5億円増加して37億円となりました。

 

4−7、出光社内における「御津マリーナ事業計画」承認 9111

 91年6月に愛知県港湾審議会において、御津地区のマリーナヘの港湾計画変更が承認されました。ただちに都市計画変更の手続きが開始され(工業専用地域→準工業地域、県企業庁、土木部、御津町)、環境部との間で環境保全計画の検討が始まりました、

 こうした中で、いよいよ出光興産としてマリーナ事業に進出する意思決定が行われました。何度目かの資料を作成し、投資委員会、次長会、部長会、副社長、社長を経て、最終的に御津マリーナの設備投資予算38億4千万円か承認されました。(土地代13億円と防波堤建設費を除く)

 これまでの社内承認を得るまでの経過、資料の作成、シミュレーションに次ぐシミュレーション、説明に次ぐ説明は、もう他にどんな艱難もないであろうと感じさせるほどの苦難の連続でした。僕にとって社内折衝ほど苦手なことはありません。その後直面した官庁折衝、漁組折衝、地元折衝も、社内折衝に比べればはるかに楽だったように思います。

 なお、この間、計画当初から行動を共にし、杖とも柱とも頼りにしていた中田一等航海士が出光タンカーの都合で91年3月をもって船に戻ることになりました。一転した船員不足の状況と、あと一年の乗船経験で30万トンの船長資格を得るという本人の立場に配慮した決定でしたが、森下にとっては大きな打撃でした。

 その後91年7月に杉山社員(のちに出光マリンズ渇c業部次長)が配属され、持ち前の馬力で頑張ってくれました。特に出光マリンズ鰍フ会社設立、マリーナの組織とチームワーク作り、マリンクラブのシステム作りと営業の基礎は彼の努力の成果です。

 

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5.マリーナの許可

 幸いにしてマリーナ法という法律はありませんので、マリーナの許可というものは存在しません。自分の土地や倉庫に船を置いてお金をもらうのに許可は必要ありません。

 ただ、マリーナといえば船を預かったり発着させたりする場所ですから、海面(または水面)が必要です。その海面を使用するために許可が必要です。
 土地についても、更地に船を置くだけなら許可は不要としても、そこに建物を建てようとすれば当然都市計画法や建築基準法が関わってきます。

 とにかくとても複雑で、マリーナ許可の総括的解説は僕には不可能ですから、ここでは「公有水面埋立法j、「港湾法」、「都市計画法」、「漁業補償」などについて、三河御津マリーナで関わったことだけを書いてみます。素人が必要に迫られてあちこち聞きかじったことですから、間違って理解している部分もあると思います。そういう法律もあるのかという程度にお読み下さい。

5−1、公有水面埋立法
 海辺で何かしようとする時、デベロッパーがまず考えるのは水面の埋立です。日本人は空気と水はタダ、土地は金儲けのタネと思っていますからまず海を埋め立てて土地を作り、そこに住宅やマンションを建てて現金化し、全体の工事費をひねり出そうと考えます。美しい海岸線がある、だから海辺の土地を購入して事業をやろう、などという発想は金輪際出てきません。まず、海は埋める。山は削る。

 海面は公有水面です。お役人は公有水面は自分のものと思っています。私有財産ではない公のものを、自分たちが大事に守っているのだと考えています。加えて海面は場所により管理が建設省、運輸省、農林水産省に分かれますから、殊更縄張り意識は高揚します。

 そんなこんなで公有水面の埋立は私企業には許可されません。公共か3セクだけに許可されます。法律でそう決まっています。以前は公の出資が半分以上の3セクでなければなりませんでしたが、最近は公が3分の1以上出資の3セクに緩和されました。
 この許可をとった者を埋立権者といいます。一般には県の企業庁などがなります。

 埋立権者はその上地を、埋立目的にそって利用者に譲渡します。埋立地の譲渡を受けた者は、10年間は再譲渡出来ないと法律に記されています。土地のみならず、土地の上に建てた住宅等も販売出来ません。土地転売による不当利得を阻止しようとの思想です。

 これでは埋立地にマンションを建てて売って初期投資を回収しようというデベロッパーは身動きつきません。マリンリソート開発にあたって彼らの最大の不満はここに集中します。
 ・なんとか埋立許可をもらえないか。
 ・せめて上物の販売を認めてくれ。
 
 
このあたり、いろいろと知恵の発生する部分です。いろんな”手法”が開発されています。

 しかし何といってもこの法律で日本の海岸線は守られているのです。僕個人は海の埋立には心が痛むばかりですから、公有水面埋立法の規制には抵抗はありません。
 ただ気をつけなければいけないのは、埋立がー一番好きなのはお役人自身だということです。先程も言ったように海は自分たちのものですから、好きなようにいじろうとします。それをたくさんやった役人が偉くなります。

 このところ土地さえ作ればお金になるという神話が崩れ、埋立てた土地が却って足手まといになっているケースが多いのは皮肉なことです。土地など作らず、係留施設だけ作っていたら身軽だったのに、と泣いている話をよく聞きます。その点、3セクというのは有り難いもので、寄り合い所帯ですから誰も責任をとらないで済みます。

 三河御津マリーナの場合、すでに造成された用地を取得したので埋立権者になることはありませんでした。公有水面埋立法との関わりとしては、10年間の譲渡制限をうけているだけです。

5−2、港湾法
 港湾に指定された海面は港湾法により管理されています。港湾法の所管は運輸省です。漁港は農林水産省、河川や一般海岸は建設省の所管です。

 港湾管理者は港湾の利用計画を策定します。これはほぼ10年に1度行うもので、管理者から国に上がり、国の港湾審議会で審議して承認されます。
 港湾管理者とか港湾とか、一つ一つ用語を定義しなければいけないのですが、省略します。三河港の港湾管理者は愛知県知事であり、実際には県土木部港湾課が港湾行政を司っています。
 港湾計画の地図を見ると、見事に将来の埋立計画の絵が出来ています。埋立予定地が薄いピンクにきれいに塗られています。いざとなって追加して思い付きと言われないように、考えられる限りの枠をとってある感じです。こんなにも海を埋める魂胆かと腹立たしくなります。

 港湾は利用目的でいくつかの地区に分けられています。ここは商港地区、ここは工業地区。ちょうど陸上で都市計画法によって「市街化区域」「市街化調整区域」、あるいは「住宅専用地域」「工業専用地域」などと線引きがあるようにです。

 10年に1度の変更では現実に即しませんから随時変更があります。県段階の地方港湾審議会とか国レベルの港湾審議会で審議されます。変更のためには、その必然性、変更の内容などいろいろの準備が必要です。事案によっては調査報告書、関係者の同意書、専門委員会による審議などが必要になります。
 変更は民間の申諸によるのではなく、お役所の起案です。ですからよほどお役人がその気にならなければ、麦更の手続きにすら入れないのです。

  民間の事業者が海面を使用するためには水域占用許可をとらなければなりません。ものを浮かせるにも、杭を打つにも、防波堤を作るにも、まず水域占用許可です。
 水域占用の許可は、まずその内容が港湾の利用計画に合致しているかどうかチェックされます。だから現状工業地区となっているところでマリーナのための水域占用許可はあり得ません。港湾計画上でマリーナ計画用地にしてもらわなければなりません。これがとても大変で、まして周囲工業地区の中で一部だけマリーナ用地にするなど不可能なことです。
 そこで普通はなんとか抜け道を探して、「小型船舶の修理工場」というような名目でボート保管の営業をするのです。当然堂々と大っぴらに海面を使用する係留施設や上下架施設は作れず、揚降する時だけ海に頭を出すモビールクレーンでお茶を濁すようなことになります。
 またそういう場所では都市計画の「用途地域」も「工業専用地域」だったりすることが多く、クラブハウス、レストランなどは作れません。「このマリーナ、どうしてレストランがないの?」と気安く聞かないで下さい、泣けてくる人が多いのですから。

  港湾計画は海の部分についてのことです。ところで港湾法は効力が陸にも及びます。港湾の機能の維持のため、臨海の地域について檻市計画の上に港湾法の網をかけることがあります。ここでは「工業港区」「保安港区」「マリーナ港区」などの分区指定が行われます。指定されたところでは、指定された建造物しか作れません。
 例えば「保安港区」では、危険物取扱に関わる設備以外はまったくと言っていいほど何も作れません。これは油槽所を建設する場合にはとても有り難い指定です。危険物はどちらかというと嫌われものですから、どこにでも作るわけにはいきません。行政はエネルギーの供給も港湾の大事な機能としてその場所を指定しているのです。
 ところが油槽所が不要になった時、この指定はまったく逆に働きます。自社の都合で油槽所をやめても、その場所が「保安港区」である限り、自分の好きなものは作れません。「工業港区
jでやっていた工場を閉鎖して跡にレストランや住宅は作れないのです。こうして川崎や横浜など、いや全国各地で広大な用地が空いたまま、何に使うことも出来ずペンペン草を生やしています。
註:その後規制緩和は徐々に進んでいますが・・。

5−3、三河御津マリーナの港湾計画変更
 愛知県では89年11月に、管内のプレジャーボート、遊漁船を対象に「港湾区域等放置艇調査報告書」をまとめました。特に三河御津マりーナのために行った調査ではありませんが、県のこのような動きが御津地区にマり一ナを計画することにつながっています。

 90年10月、出光マリンズは御津用地の海域についてボーリング調査を行いました。これは防波堤、杭等の基本設計を行うために必要でした。
 91年3月、潮流変化環境事前予測を行いました。これは三河御津マリーナの防波堤を作った場合、付近の潮流に大きな変化が生じないかどうかのシミュレーション調査です。
 この調査の実施を指示された頃は(90年10月)、まだマリーナが本当に出来るかどうか不安な気持ちでいましたから、どんなことでもやれと言われると嬉しかったものです

 91年6月、遂に伊勢湾海難防止協会による「御津地区マりーナ立地計画に伴う船舶航行安全に関する調査」が行われました。
 形の上では出光とスズキが委託者で、伊勢海防が受託者として調査研究を行うとしていますが、実際には港湾管理者である県が伊勢海防の親分である四管に話を通して特別専門委員会が作られました。ちなみに委員の顔触れは下記の通りでした。

「御津地区マリーナ立地計画に伴う航行安全に関する調査研究」特別専門委員会
  委員長  伊勢海防副会長
  委員   水先人会会長
       内航船舶安全協議会会長
       三谷、御馬漁業組合長
       海員組合支部長
       蒲郡ヨットハウス所長
       愛知県マりーナ協会会長
       日本水難救済会支部長
       中部小型船安全協会事務局長
  官公庁  四管警救部長
       名古屋港長
       蒲郡保安署長
       三河港工事事務所長
       愛知県土木部長
       愛知県三河港務所長
  受託者  伊勢海防会長、専務理事他
  委託者  出光(森下、中田、比翼)、スズキ

 これらの方すべてを事前に訪問して、ご挨拶・ご説明をして廻りました。この委員会による現地視察、委員会開催が、三河御津マリーナに関する港湾計画変更のハイライトでした。
 なかでも、「自分が出たらどうしても反対を言ってしまうから、用事を作って出張してやるよ」と言われた方のことなど、忘れられない思い出です。
 詳細な報告書が発行されています。

 県としては、国への説明を始めとして他にもいろいろな手続きがあったのだと思いますが、とにかくこの委員会からの報告をうけて直ちに愛知県港湾審議会が開かれ、港湾計画変更が決定されました。

 

****************************************

           三河港港湾計画書
            軽易な変更

               平成3年6月 三河港港湾管理者

  一・一一一一・一一一一-------−−−一一

    変更理由

    増大する海洋性レクリエーション需要に対応し、また放置艇を収容するため、御津地区においてマリーナ
    を計画する。
    1、マリ
ーナ計画(追加)
       御津地区
       泊地      水深2〜2.5m  面積10ha
       航路      水深  2.5m   幅員40m
       防波堤     延長1120m
       小型さん橋        16基
       レクリエーション施設用地  4ha
    2、十地造成および土地利用計画(変更)
     港湾施設の計画に対応して、土地造成および土地利用計画を次のとおり計画する。
       御津地区 工業用地153ha  レクリエーション施設用地4ha

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5−4、三河御津マりーナの都市計画変更
  三河御津マリーナの用地は都市計画上、「工業専用地域」でした。これではまともなマリーナの施設は作れません。
  当然のことながら、通常は企業の都合で都市計画の用途地域を変更することなど不可能です。しかし港湾区域の中で、港湾計画が変更されたことに伴い、都市計画も変更されることになりました。
  91年8月に御津町が起案し、県土木部都市計画課が窓口となり、2度にわたる住民縦覧とか都市計画審議会を経て、92年3月に「準工業地域」に変更されました。ただし、住宅は建てられない、等の条件を付けられました。

5−5、漁業補償
  漁業権についてはセミナーを聞きに行ったり本を読んだり、いろいろしましたがさっぱり判りません。江戸時代、あるいはもっと昔に遡る慣行だと言ったり、わが国だけの悪しき慣例だと言ったり、人各々の立場でいろいろに言いますが、現実に大金が動いているのは事実です。
  関西空港では650億円、和歌山マりーナシテイは50億円などと噂が飛び交う中での三河御津マリーナの計画推進でした。
  御津用地については、「土地造成時に漁業補償は済んでいる。」と県から聞いていました。漁業権補償は済んでいるとしても、工事に伴う迷惑料とかなんとか、難題を言いだされればキリのない世界です。緊張して臨みました。

  随分いろいろと挨拶に廻ったり説明に通ったりしましたが、結果として三河御津マリーナの建設に関して出光が漁業補償的なお金を出すことは一切ありませんでした。どなたも、 <信じられない>とおっしゃいます。
  地元漁業者のご理解および関係諸官庁のご指導に感謝の思いで一杯です。また工事に当たった東亜建設工業さんにもよくやって頂きました。

  このことで忘れられないのが、愛知製油所建設時(昭和48年〜50年)における中野太平所長の姿勢です。 私は当時建設事務所の渉外担当でした。中野さんは漁業補償であれ地元対策であれ、筋の通らないお金は決して出さない方でした。出光の他の現場では必ずしもそうではない空気もあった中で、中野さんは毅然として筋を通されました。三河御津マリーナでの対外折衝において、僕の頭にはいつも中野さんの姿がありまた。
  それにつけても特に電力会社が野放図に理由のないお金をバラ撒く姿勢には腹が立ちます。担当者がとにかく成果を上げるために金を使うのです。当然 上層部もそれを奨励しているのでしょう。世の中を汚しモラルを低下させる元凶です。

 

5−6、建設計画、環境保全計画
  県企業庁と土地の売買契約を締結するにあたり、企業庁内の企業立地審査会を経なけれぱならないのですが、その前に「建設計画書」と「環境保全計画書」を提出しなければなりませんでした。
  「建設計画書」は、県の用地を購入してこれこれの事業を行うという約束で、この作成は簡単でしたが、中に収支計画の記入があってちょっと困りました。
  儲かるといっていいのか、儲からないと書いたら土地を売ってくれないのか。

  「環境保全計画」
  この計画作成は大変で、ほぼ1年半かかりました。大気、騒音、水質など、すべての項目にかかわる施設およびシステムについて厳重なチェックがありました。
  例えば汚水浄化槽について、その能力、タイプなどは当然として、ブロアに使用するフフンのモーターまで機種、取り付け位置、発生騒音等がチェックされました。
  構内のゴミ処理(マリーナですからそれほどのものが出るわけがありません)について、当初は焼却炉を想定し排出ガスまではクリアしたのですが、燃やした後の灰の処理業者が近くにいないという理由で結局ゴミ収集に落ちつさました。

  目玉は、マリーナ港内の水質浄化のため、ジェットエジェクターを設置したことです。これは強制的にエアーを吹き込むことで、干満差だけでは置換しにくい港内の海水を浄化しようという試みですが、港に設置したのは多分全国で初めてでLょう
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  当時出光マリンズの陣容は3名(森下、浜谷、杉山)だけで、とても環境保全計画にかかる余裕はなかったのですが、工事元請である出光エンジニアリングの営業担当者(末岡)がすぺて取りまとめをやってくれました。これだけでも出光エンジに工事元請をお願いした甲斐があったと感謝しています。

5−7、公害防止協定
  起工式直前、93年4月17日に御津町との間で公害防止協定が調印されました。
  協定の内容自体は町の定型様式のままで何も問題はなかったのですが、いよいよこれが最後の対官庁折衝業務であり、この仕事にとりかかって以来4年間の努力の果てにやっとここまでこぎ つけたかと感無量でした。
  一方で「物を作るだけでは意味がない。事業として仕上げなければならない。」と覚悟を新たにしたことを覚えています。

の食事>西瓜物語       黒潮丸

 

 もう夏も鋳わりなので西瓜があるかどうか心配になって近くの八百屋を覗いたら、あるある、まだ売っている.確認して安心していた。
 
14の晩、近所の大きなスーパーに行ったらもう西瓜は扱っていないという.あわてて先日の八百屋に行ったら1週間前に見たのがそのまま鎮座している.なんだか売れ残りみたいだったがこれしかないめで仕方がない.少しは負けるかと恩ったが3千円きっちりとられた.

 ごれがまあ重いこと、バケツに水一杯入れて提げて歩くのと同じこと! それにワインやら何やら買って帰った.      
 そして当日は着替えや梨、キューイ他が加わり、あまつさえ傘だ.よく持てたと恩うよ。極めつけは東陽町でさらにダイヤアイス4袋を貿ったことだ.タクシーを下りてからマリーナのポンツーンの上で何度立ち止まって荷物を下ろし、指のあたる場所を変えだごとか.もちろん傘なんかさせやしない、濡れながら参いたさ.
註:この当時艇を東京湾マリーナに置いていた
 

 ところでごの西瓜、めっぽう美味かった.例のフーツポンチを作ってみんなで食ぺちやつたよ.

フルーツポンチの作り方
 材料
 酉瓜     1     割れたり、ヒピが入ったりしないように
 季節の果物 3−4ケ   今回は梨、キューイ、レモン
 オレンジキュラソー 1  酒屋で小きなピンで売っている
 ガムシロップ       砂糖だと溶けにくいから
 ワイン    2本    今回は9人
だった

遊具
 ナイフ、特大匙、ポンチを掬うもの、西瓜をそのまま入れる大きなボウル
 西瓜の中味をかき出して入れるボウル、 各自用の小匙またはフォーク、
 各自カップ  ワインの栓抜き

くり方
 1、用意した果物の皮をむいて切る.梨ならサイコロに.キューイはスライス.
   レモン
lま皮を剥いて、四つに割ってスライス.
 2、西瓜の頭3分の1くらいのとごろを切り落とす
.
 3
、西瓜の果肉7割は外に出し、残りの果肉を適当にこそいで砕き小さくする.タネはそのままでいい.
 4、果物とキュラソー、シロップそしてワインを西瓜の中に注ぎこむ.
 5、よくまぜてお召し上がりください.
 6、西瓜の果肉がとても美味しく食ぺられるので、小匙を用童します.

                                    以上

 

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6.基本設計

6−1、設計会社の選定
 三河御津マリーナの基本計画は、90年5月の「仮称御津マリーナ基本計画書」(マリナス開発)で検討されていますが、この内容は「アクセス条件」「三河湾内需要動向」「既存マリーナ」等、もっぱら社会的条件に関わるもので、港としての基本計画ではありませんでした。

 港湾計画としての基本計画検討は東亜建設工業鞄aに依頼しました。蒲郡油槽所跡地での事業化計画以来、他にも数社の候補があったのですが、情報がすべて現地の実情に即しているとの理由から東亜さんにしぽりまた。90年10月に現地海域ボーリング調査を行って基本計画検討に入り、その後引き続いて基本設計、実施設計、工事施工をお願いしました。

 いよいよ出光三河御津マリーナ建設の基本設計に入るにあたり、設計会社を決めなければなりません。総合建設会社であるゼネコンに設計を含めて依頼する意見もありましたが、マリーナという特殊な施設だけに、別に設計会社をたてる方がいいと考えました。出光エンジニアリング鰍ニ潟}リナス開発に設計会社の推薦をお願いしました。いくつか名前は出ましたが、マりーナの設計にそれほど決定的な経験を持ったところはありませんでした。

 90年8月、愛知県に事業計画書を提出した直後に、どこともしぽりきれないまま、名前だけ持って出光エンジニアリング社長と一緒に出光社長にご相談に上がりました。結局、出光興産が普段よく設計を依頼している鞄建設計殿に依頼することになりました。
 こうして日建設計の松本設計部長、赤川鉄哉技師(当時29才)が三河御津マリーナの設計を担当してくれることになりました。現在の三河御津マリーナの施設の魅力はここから発します。基本設計、詳細設計、工事監理に至るまで非常によくやって頂きました。特に監理については、あれでは工事会社は泣きだなと思うほど厳しくチェックしてくれました。

 実は日建設計が設計に着手した後、有名なヨット設計家ロン・ホランド氏が三河御津マリーナの設計をぜひやらせて欲しいと訪ねて来ました。ロンはアイルランド人で、数々の名艇を設計したヨットデザインの世界の大家です。ウエンプレイ・ジャパン(ジュリアナをプロデュースした会社)を窓口に訪ねてき ました。しかし如何せん91年11月でしたからもう変更は不可能でした。


ロン・ホランドの事務所が描いたパース

 私はセーラーですからロンご本人に会って感激しましたし、もう遅いというのに急遽本国の事務所に我々のコンセプトを送り、数日でパースを描いて提出したのに感心しました。彼はデザインの中にシンボル性を重視します。クラブハウスの屋根にとんがり帽子の望楼を置いてそれを全体のシンボルとし、それこそポンツーンの杭の頭にまでとんがり帽子を配するのです。そこに強烈な自己主張が生じます。
 
この点を赤川さんと何度か話し合いましたが、日建設計には日建設計のプライドがあり、あまり取り入れてはもらえませんでした。


日建設計の描いたパース
 

6−2、海域施設
6−2−1、防波堤の位置
 海域施設を考えるにあたって、まず決めるべきは防波堤の位置でした。

 水際線=護岸法線は西に面して南北に真っ直ぐな線です。スズキさんと合わせれば480メートルの水際線です。
 南(海側)および北(陸側)の防波堤は水際線に直角に出すことになりました。さて、どこまで出すかです。長く出せばそれだけ占用する水域面積は広くなります。しかしそれだけ浚渫や防波堤の工事費がかかります。予算にしばられている立場としてはそちらからの制約もありました。
 そのうちに判ってきたことは、海の上にも行政境界があり、御津町と蒲郡市との折り合いがついていないことでした。御津用地の水際線から200メートルあまり西に紫川という川が流れ出していますが、そこが御津町と蒲郡市の境界です。海上の境界は川の延長線上なのか、流れ出している方向なのか決着がついていません。いづれにしろそんな境界争いに巻き込まれたら大変です。いつになったら許可をもらえるか判らなくなります。
 県の課長に相談したら、しばらく考えて、こんなところかなあと線を引いてくれました。こちらの持参した図面に気軽に引いた線ですが、後から判ったことですがなんとこれが蒲郡市の主張する境界ギリギリに御津町側に入った線でした。見事なものです。お役人には地元のそんな争いも、ちゃんと頭に入っていたのでしょう。

  それでも幾度か御津町と蒲郡市の折衝があって、それなりやきもきしたり心配したりして、やっと我々の計画の西側の線が決まりました。これも後から判づたことですが、我々の西防波堤の外側200メートル先が、蒲郡海洋開発(愛知県、蒲郡市、トヨタ他)の蒲郡ラグナックス計画による埋立地の護岸線なのでした。なんだか素人がお役人の掌の上で踊らされていたような気もします。

6−2−2、マりーナの水深と浚渫
 御津用地の前面海域の水深は一番沖側で2メートル、陸寄りはプラス50センチという浅い海域でした。これを何メートルまで掘るか。
 いかにプレジャーポートのハーバーとはいえ、港であるからには5メートルの水深は欲しいところです。しかし深く掘ればそれだけ工事費が嵩みます。約10万uの水域ですから1メートル掘って10万㎥の土量です。
 掘った砂をどこに捨てるか、浚渫における最大の課題も未解決でした。東京湾で浚渫をしたら、土を捨てるのに運賃が1万円もかかるという話も聞いていました
 
とにかく浚渫は最小限にしたい。悩んで悩んで
水深2.5メートルに決めました。プレジャーボートのヨットが入れるぎりぎりの深さです。もうあと50センチ、いや1メートル欲しか・ったのですが、ない袖は振れませんでした。スズキさんはポートしか預からないということで、スズキさんの部分だけ2メートルにしました。

  港の外も、航路として海底面2.5メートルのところまで幅40メール、長さ500メートルにわたって掘ることにしました。長い間、海は簡単にさわれないものと思づていましたから、航路を掘るなんておっかなびっくりでしたが、一旦マりーナとして港湾計画上認められてからはこんなことも出来て感激しました。
 もしも、この海域の水深が10メートルあったらどうだったでしょう。多分、事業計画を検討する段階でこの計画は潰れていたと思います。水深3メートルと10メートルでは防波堤の建設費は桁が違ってきます。メーター当たり1千数百万も建設費がかかるようでは、もう民間の手には負えません。出光マリンズの三河御津マりーナは海域が浅かったから出来たと、はっきり言えます。

 開港して1年半、これまで船の底が着くと言われたことが1度あります。勿論潮時をみれば入れないことはないのですが、肩身の狭い思いです。
 泣きどころは、もしもニッポンチャレンジが勝ってアメカズ・カップが蒲郡海域にやってきた時、喫水4メートルといわれるレース艇を迎え入れることが出来ないことです。その時は便乗して、どこかの予算で掘ってもらいましょう。

 

6−2−3、防波堤の高さ・形状・構造・静穏度
 防波堤はなんと言ったって低い方がいいです。コストが安いし、威圧感がない。ボートのデッキに立って、防波堤の外が見えるのがいい。素人の施主はこんな太平楽を言っていましたが、専門家の東亜 建設さんはそうはいきません、いろいろと計算してくれました。

 海域のHWL( 満潮時のレベル)は240センチです。これをベースに、最大風速30メートル、水深、吹送距離などから計算して、防波堤高さは4.2メートルということ だそうです。これなら船のデッキの上に立って4.9mとすると(満潮=2.4m+デッキ高さ=1.0m +眼高=1.5m)充分防波堤の外が見えます。まあいいかと思いました。
 はじめのうちは港務所(港湾管理者の出先)も、民間の港は己のりスクで作るのだから、防波堤の高さは勝手である。」と言っていました。台風時などには多少の 越波が予想されましたが、ポンツーンの杭の強度を上げておけばよいだろうと気楽に考えていました。最初の事業計画はこの高さで進められました。

 ところがそのうちに、これではまずいことになってきました。
 御津用地のすぐ向かい側に国体用の県営ヨットハーバー(現海陽ヨットハーバー)の建設が始まったのですが、ここの防波堤高さが4.9mだったのです。その根拠は、台風時には気圧が下がって高潮偏差、つまり水面が吸い上げられる現象がおきるというのです。結局HWLではなく、HHWL395センチをとることになり、うちの防波堤高さも4.8mになりました。いくら伊勢湾台風があった土地柄だってあまり大事をとるのは地域の不経済ではないかと不満たらだらでした。
 そこに事件が起きました。90年10月の19号台風です。殆ど完成していた県営ヨットハーバーの防波堤が、ものの見事に1 2 0メートルにわたって崩れ、水没してしまいました。
 自然の猛威を目の当たりに見て怖じ気づきました。東亜さんは19号台風のデータを集めて新たな計算を行いました。どんどんごついものになります。最終的に高さは5.4m、構造もプロヅク積みだったのを南面だけはケーソン式に変更しました。こうしてそばに寄るとそびえ立つような岸壁になりました。
 県の方は事件でどういう教訓を得たのかどんな強化策をとったのか知りませんが、同じブロック積みの防波堤を再建しました。
 そして94年9月の台風で、また先端が崩れました。

 形状をいうと、当初は西側の防波堤に2ヵ所の出入り口を設け、その外に短い二つの離岸堤を置いて波の進入をとめようとしていました。出光とスズキそれぞれに 一つ、というわけです。
 この離岸堤がだんだん成長して現在の姿、北は西面内防波堤に接した長大な一本の西面外防波堤となったのですが、これでなければとても冬季の季節風による波浪の侵入を防ぐことは出来なかったでしょう。今となってはなぜもっと西面外防波堤を南に延ばしておかなかったのかと悔やんでいるほどです。しかし当時は予算を低く抑えたい一心でした。
 なお西面外防波堤は、流砂の侵入防止にも大きく役立っています。

 防波堤の形状は港内静穏度の計算(通常時波高30センチ以下、異常気象時50センチ以下)で決まったのですが、はじめ台風の進路をSSWと想定した場合、どうしても港の一番奥にあたるスズキさんの北面防波堤で返し波が起こり、70〜1 2 0センチとなる計算になりま した。ぞれではと出光とスズキの境界線に波返しを設置すると、今度は出光側に返し波が起きてしまいます。
 この問題は南面防波堤を15メートル延ばすことで解決しました。港湾設計上の常套手段なのかもしれませんが、僕にとっては荒井マジック(東亜建設の設計担当者)でした。現状、港内の静穏度は設計通りにおさまっています。

 ハーバー内の換水のため、防波堤に穴を開けることも論議しました。和歌山マリーナシテイではそれを実現しています。強く要望したのですが、荒井さんは、防波堤が弱くなると言ってあくまで反対し、実現しませんでした。彼があれだけ信念をもって言ったのだから、穴を開けてはいけなかったのでしょう。三河御津マリーナの海の設計者は荒井清さんです。

 またある段階で、県の課長(野畑さん)から「そんな真四角なコンクリがちがちの防波堤でいいのかい?これからのマりーナは丸くしたり、岩を使ったり、優しくしなきゃ。 」と言われました。あちこちで描かれる計画図がそんな風になってきているし、そろそろまとまってきた蒲郡ラグナックスのラグーンの絵などが念頭にあったのでしょう。有り難いお言葉でしたし、そうありたいと思いましたが、 予算のない袖は振れませんでした。

 

6−3、港内レイアウト
 防波堤の位置が決まっていよいよ港内レイアウトです。
 港湾構造上のことは東亜建設さん、船まわりはマリナス開発さん、浮桟橋についてはマリナベンチャーズジャパンさんに応援してもらいましたが、港内レイアウトに関しては本当に僕の思うように描かせてもらったと思っています。「港内配置図」に「Designed  by Morishita」と名前を入れてもらえたことは、わが生涯の幸せです。   

 よく「マリーナを作るのに、どこを参考にされましたか?」「どこを見てこられましたか?」と聞かれますが、実は僕はあまり外国のマリーナを知りません。僕の知見の源泉は国内のマリーナであり、漁港です。関東から関西にかけての殆ど全部のマり一ナに、自分 でヨットを操船して入港したことがあります。そこで苦労したこと、苛められたこと、歓迎をうけたこと、の思いが三河御津マリーナの設計に結実しています。だから三河御津マ リーナは徹頭徹尾ユーザーの観点から考えられています。
 もし三河御津マリーナのハーバーがお客様に好評だとすれば、それはあくまで船の乗り手の立場で設計されているからだと言えます。    

 ハーバーの設計にあたりまず考えたのは上下架設備の位置でした。クレーン(結局は クレーンでなくトラベリフトにしましたが)の位置を決めなければ、他の何も決まりません。陸上施設の位置もクレーンによって決まります。
 最初にクレーンの場所を決めました。陸上保管が多い場合はクレーンの基数が問題になりますが、三河御津マリーナの場合陸上は90隻ですから1基で問題ありませんでした。

 給油施設 の位置はクレーンに従って決まりました。

 それからマリーナの最主要施設である浮き桟橋=ポンツーンの配置になります。ポンツーンの組み合わせによってクレーンの位置も微調整されます。
 ポンツーン配置については、早い段階からセンターピア・ゲストバースの設置を考えていました。これは本邦マリーナにおいて嚆矢となるものではないでしょうか。ビジターバースは保管料金がとれませんからお金になりません。またセンターピアは両サイドに水域のスペースを必要としますから、大事な係留水面を潰してしまいます。 従来のマリーナの経済からすると考えられないものなのです。それを敢えて置いたのは、まず「開かれたマリーナ」という三河御津マリーナの基本コンセプトを具体化するものであったことと、これまでどこのマリーナに入港しても 邪魔者扱いで痛めつけられてばかりいたピジター艇としての怨念が、ここで爆発したと言えないこともありません。

 センターピアの根元を膨らませてステージにしたのは後から思いついたオマケでした。ここでレースの表彰式や、新艇の進水式、音楽会などのイベントを行っています。ファッションショーをしたこともあります。
 センターピアを置いた結果は大成功だったと思っています。初年度、有料のビジター艇入港が420隻を数えました。こんなマりーナは日本のどこにもありません。
 なお陸上の施設から海上に向けられる視線が、センターピアに集中するように設計されています。マりー・ナの外の道路から、ピロテイから、正面玄関から、海が透けて見えます。センターピアが透けて見えます。

 係留施設として、ポンツーンのスリップ(各係留場所)にシングルスリップを導入した のも本邦最初でしょう。 
 これまで日本のマリーナは非常に水域が限られ、スペースがありませんでしたから、ポンツーンヘの係留は例外で、通常は固定桟橋と固定杭との間に艇を繋ぐのがー般的でした。ポンツーンヘの係留は大変なステータスで、シーポニアなど一時は ポンツーン係留の権利が1億円などと言われたものです。そんな時代にはシングルとかダブルとか頭にも浮かびませんでした。
 シングルスリヅプを作ってみて感じるのは、圧倒的な居心地の良さです。自分の場所と いう占有欲を充足させるとか、一般とは違う満足感は予想されたことですが、両サイドにもやいをとることで、何よりも係留のし易さ、乗降のし易さと、係留状態の安定感が 素晴らしいのです。特に季節風の強い時期など、ダブルスリップとは比較にならない安定惑があります。ボート所有の楽しみにまったく新しい要素が加わります。

 あとはいかに効率よく水面を使うかを考えました。
 航路巾、フィンガー間隔等、ポンツーン配置については別項にゆずります。

 ああ、港内レイアウトでもう一つ忘れてならないのが、ヘッダーウオークウエイの設置です 。
 護岸から沖に向かって突き出す各桟橋(三河御津マ−ナでは8本あります)が、護岸添いに敷設した巾3メートル、長さ270メールのヘッダーウオークウエイ(横桟橋)で連絡しています。これでマリーナ全体が一つに結ぱれました。陸上から、あるいは船上からポンツーンデッキ面に下りた時のマリーナ全体の一体感がここに生まれました。三河御津マリーナの大きな魅力の源泉です。
 通常他のマリーナでは、各桟橋が護岸から直接突き出しています。だから隣の桟橋に行くには一旦上陸しなければなりません。
 予算の制約とにらみ合わせて悩んだ末のヘッダーウオークウエイ設置でしたが、大成功でした。

 

 

 三河御津マリーナ平面計画図

 

6-4,海と陸の繋がり
 三河御津マリーナが最も特色を出しているところ、他のマリーナにない工夫があるところ、それが海と陸の繋がりの部分です。
 マリーナは港です。船で港に入ってきて、船を繋いで、船を下りて、デッキを歩いて、そして陸に上がる。この海と陸の繋ぎの部分こそマリーナの核心だと考えました。そこをどう処理するか、最も苦心したところです。

 三河御津 マリーナの潮位差は2.4メーターです。護岸の高さは4メーターです。干潮時で4メーター、満潮時で1.6メーターの水面と陸上面の差をどう処理するか。
 また既設の護岸は自立護岸といって、本格的な岸壁になっていませんでした。護岸の外側に捨石を置き、さらにテトラポットを積んで岸壁の自立を保たせていました。テトラポットは防波堤を作ることで撤去可能となりましたが(このテトラで西面外防波堤を作った)、干出する捨石をどけることは出来ず、従って護岸から8メーターは船の入れない浅瀬です。8メーターのところに鋼矢板を打って、そこから沖が水深2.5メーターでした。

 策の第1は先に述べたヘッダーウオークウエイです。幅広く、横に長いデッキがあることで、水上面での行動に安定感が生じます。
 第2策は陸上部を板張りデッキで覆ったことです。ポンツーンが前部板張りですから、陸上を同じ木質にすることで上下移動に違和感が生じません。木は長崎ハウステンボスで使用していたボンゴシという堅木を採用しました。比重が1より重いという堅い木で、ノコギリで挽いたオガクズが水に沈みます。工事をする日本国土開発の大工さんがコンクリみたいだと泣いていました。
 陸上部の板張りは夏の日光反射が柔らかい、熱の照り返しが穏やか、デッキシューズで歩く足に心地よいなどいいことばかりです。
 第3策は護岸からレベルを1メーター下げた親水デッキを張り出したことです。陸上面GLから直接ポンツーンに下りるのでは高低差があり過ぎると、もう1つステージを作ったのです。8メーターの浅瀬を越すための意味もありました。いまこのステージと手すりが恋人たちの格好の語らいの場所になっています。
 
第4策は、板張りデッキと親水デッキの高低差を腰掛け階段としたことです。海を眺める時 やセンターピア上のステージ(ピアステージ)の催しを見る時など、みんな腰掛け階段に座ります。ここに海と陸の間に視線のつながりが生じます。
 第5策として、クラブハウスやレストランなどの建物をずっと水辺に近づけました。水辺に駐艇場を置いて、建物は護岸からずっと離れてというマリーナが多いのですが、あれは夏の盛りにお客様 が長い道のりを歩かなければなりません。名前を拳げてみましょうか?
 第6策。建物の海側壁面にボンゴシで回廊を渡しました。これも陸と海、建物とポンツーンを近づける工夫です。回廊の高さは、上の人と下の人の指が絡む高さにしました。
 第7策。クラプハウス棟の2階の部屋の窓側にテラスを設けました。管制室には外から上がる階段と広い踊り場。オーナールームの窓の外にテラス。そして中心にもっと広いテラス。                               

 全部、全部、海と陸の繋がりの工夫です。

 

6−5、建物
 建物のデザインを考えてくれたのは日建設計の赤川さんです。
 陸上は僕の専門外ですから、一切赤川さんにお任せしました。

  設計与条件として提示したのは、もっぱらマリーナとしての機能と、サイズに関することです。

  クラプハウス棟とレストラン棟の分離、曲面を持った壁、海に傾斜した屋根など、美しい建物になりました。特に赤川さんは各施設から水面への視線の高さに意を払ってくれました。
 後で述べる見積り調整の際、建設費削減のために幾度か危機にも見舞われたのですが、なんとかコンセプトは守り抜いたと思っています。

  運営開始後各部屋の使用目的、広さなどについて、予想以上に 齟齬を来しています。つまり運営の実態が見えていなかったわけですが、これは赤川さんの責任ではありません。
 ただ一つ、赤川さんに判ってもらえなかったのは、海に対する感覚です。彼は建物を出たらすぐに海、ドボンと海、リソート感覚の海、という感じだったと思います。 僕はそれに反対でした。海は荒々しいもの、建物は海から避難する場所。だから出入口は海に対してオープンではなく、シェルター(胸壁、狭間、堰堤といったもの)で囲われる べきだと言ったのです。これは彼の入れるところとならず、彼の感覚で作りましたが、結果としてエンランスホールの外に風避けを 追加工事することになりましたから、僕のイメージの方が合っていたのだと思います。

 

6-6、修理工場
 修理工場は、事業計画の早い段階からヤマハさんに業務委託することに決めていました。なんといっても当方にはまったくノウハウが無いのですから。

 ですから建物の面積だとか機能について議論することはありません でしたが、ただ修理工場の位置と向きについて、現状に落ちつくまでには経緯がありました。
 当初修理工場の位置は、現在のサービス事務所のすぐ裏側(東側)にするつもりでした。そもそもサービス事務所そのものも、クラブハウスの事務所と2元管理になるからやめたいと、何度か基本計画から消えたのですが、クレーンや給油所の位置を考えるとどうしても現場の事務所を置かざるをえず、ポートヤード海寄り中央に据えたのでした。ですから、修理工場を遠く離すとそれこそ3元管理になりますから、サービス事務所のすぐ裏の場所に予定したのです。

 しかし、保管艇の取り回しを中心に考えるうちに修理工場はだんだんと追いやられ、クレーンから一番遠くのサービス出入口近くになってしまいました。
 そこでも、少しでもサービス事務所に近い第1駐艇場側に置きたかったのですが、それでは開口部が北を向くことになり、日光が差し込まない、北風が吹き込む、の理由で現在位置に落ち着きました。

 ヤマハサービスセンター御津が出光マリンズと別組織ということもあり、遠く離れましたが今のところあまり支障はないようです。

 

6−7、給油所
 石油会社の作るマリーナとして、給油所は看板です。

 プレジャーボートの給油は難しいとの先入観がありましたから、当初何がなんでも海上給油所を作るぞと勢い込んだものですが、きちんと水域占用をとり、消防と相談しながら進めたら、海上給油所の建設はそれほどややこしいものではないことが判りました。漁港の給油の先例もあり、消防には海上給油所の規定があるのです。
 難しい、難しいというイメージは、許可のないところでやろうとしたから難しかったのでしょう。

 給油所の建設そのものについては、別に「マリーナの給油施設について」をまとめてあるのでそれに譲ります。

 なおボーヤードに自動車は入れませんし、揮発油販売業法の許可をとっていないので車への給油は出来ません。

 

6−8、照明設計
 照明については、それなりの照明は必要だと思っていましたが、せいぜい照度計算くらいに考えていました。
 ところが日建設計の赤川さんが、特にLPAという照明設計の専門会社(面出薫社長)に依頼して、素晴らしい照明をデザインしてくれました。

 基本コンセプトは「プルーモメント」です。これは「日没から闇に移る 寸前に、夕焼けの赤からあたりが一瞬ブルーになる時間がある。それをプルーモメントという。」そうで、西に面して夕陽の美しい三河御津マルーナに因んだテーマです。
 このコンセプトを、クラブハウス棟に設置した気象計器用の鉄塔と、ポンツーンの杭の頭にブルーのライトをつけることで実現しました。夜になると波間に揺れるポートが 美しくブルーに浮かび上がります。
 レストラン「プルーモメント」の名前もこれからとったのですが、売上好調の原因の一つに、この夜間照明の美しさもあるでしょう。

 マりーナ構内で見るだけでなく、対岸や山の上から見ても素晴らしく美しく、それで訪ねてくる人も多いようです。
 また防波堤の外の海に向けて10数個のブルーのライトが点いているのですが、夜間入港する船が少なく、ちょっと宝の持ち腐れです。

 

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7.ポンツーン

  マリーナとはいよいよ煎じ詰めれば防波堤と係留桟橋ではないでしょうか。防波堤と桟橋がマリーナの命です。敢えて付け加えれば、そこから陸への上がり方です。
  だから僕は何よりも防波堤とポンツーンの設計・選択に注意と関心をはらいました。そして何よりも売り込みが激しかったのがポンツーンでした。

7−1、タイプの選定
  マリーナの浮き係留桟橋として市販されているポンツーンは、まずその構造から2種類に大別できます。長さ10メートルほどの躯体を繋ぎ合わせるか、デッキ面上部一体構造とするか、です。いづれもデッキ面と浮体から成ります。
  ついでデッキ面の材質による分類があります。鉄、了ルミ、コンクリート、FRP、木などがあります。

  三河御津マリー・ナではまず否も応もなく上部年休構造を選びました。箱を繋ぎ合わせるのは、どうしてもその連結部分に力がかかり、トラプルのもとになるからです。
  注:「舵」誌95年3月号の巻頭に、阪神大震災にやられたマリーナの写真が出ていますが、やはり連結部分が壊れています。)
  それに対し上部一体構造では、応力が分散されるというか、波にあわせてくねるのがとてもいいのです。実際に台風に遭ってみて実感しています。

  表面材は木を選びました。価格面でも、木が安く出てきました。
  木の表面材といっても2種類あります。金属やコンクリのフレームに表面材としての木板を張ったものと、材木そのものを上部構造材としたものです。

  一体構造で、木で、となると自ずとメーカーは絞られます。清水建設が担いでいる米国Meeco社の製品と、やはり米国製のマリナベンチャーズジャパンが担いでいる製品がありました。
  同じ木ではあっでも、Meecoは米松で、マリナベンチャーズは米杉という違いがありました。結局はマリナベンチャーズの製品を選んだのですが、米松の表面材もなかなかいいもので、今でもちょっと未練があります。
  ただMe e coは金属のフレームに米松の板を張るタイプで厚さ3センチほどですが、MVは厚さ12センチの米杉の集成材をボルトで止めて表面の構造材としています。この12センチ厚のデッキが、マリーナの大きな魅力になっています。

 

7−2、ポンツーンと杭
  ポンツーンは海底に打ち込んだ杭で確保されます。
  杭ではなくアンカーで止める方法もありますが、これは杭の乱立が目障りだからという理由か、許可の関係で海底に杭を打てない場合に採用されます。杭に比ベポンツーンの揺動が大きく、また揺れの周期がボートの揺れ周期とずれるために係留索が切れるという問題があります。

  ポンツーンにかかる力は、ポンツーン自休への波と風の力、および係留されたボートにかかる波と風の力の総和です。
  通常なら波の力の方が圧倒的に大きいのでしょうが、ハーバー内では異常時でも波は50センチ以下に設計されていますから相対的に風を受ける力が大きくなります。
  これらの力を計算し、そして杭の力を計算して杭の本数を決めます。

  三河御津マリーナでは港内の地耐力と、必要な杭の高さから考えて、20メートルの杭を打ち込むことにしました。外径400mm、厚さ12mmの鋼管杭です。
  打ち込み深さ(根入れ長)は11.2mです。潮高がHHWLの3.95mになった時に、なおポンツーンの上に杭が1.5mは首を出す計算です。

  この杭を何本にするかで大論争になりました。

  選定の最終段階に残っていたマリナベンチャーズジャパン、プリジストン、パシフィックマリーナ(日本郵船)、清水建設(Meeco)の4社に杭の設計をお願いしました。240隻分のポンツーン全部に対する杭の打ち方です。
  マリナベンチャーズジャパンは、当方指定の長さ20m、外径400mmの鋼管が60本必要と言ってきました。BS、日本郵船も大略同じような考えでした。
  それに対して清水建設は、長さ23m、外径500mmの鋼管が1 6 4本必要だと言うのです。大変な違いです。

  「世界一の製品を世界一のエンジニアリング会社が担いでいるのだから絶対に間違いはない」と清水さんは言います。
  重要なことですから当方も出光エンジニアリング、日建設計、東亜建設工業が鳩首協議しました。相手が清水建設ですからどこもはっきりと物を言いませんが、どうも清水の本数は多すぎるのではないかとの感じでした。
  そのうちに清水さんが水槽実験をやるのでその様子を見てくれということになりました。習志野の日大まで出掛けました。模型のヨットを3隻も作っての大がかりな実験でした。清水さんとかゼネコン大手のやるこういう実験の結果が、多分運輸省の港湾設計基準なんかになっていくのだろうなと思いました。
  博士とか技術士とか、偉い人が何人も来て、いろいろと説明してくれました。ただ僕にはどうしても納得出来ないところがありました。それは、僕には清水さんの実験は戦艦大和に当たる波力を計算をしているように思えたのです。そんなことはない、ボートに当たる波はピンポン玉に当たったように、玉を弾いて底を抜けてゆくのではないか。博士たちにそう言いましたが、聞いてはもらえませんでした。結局清水さんとうちとはお互いに納得しないままでした。

  マリナベンチャーズジャパンの方は細かい計算もさることながら、アメリカではこれで充分にハリケーンにも対抗しているという実績を掲げてきました。どうもその方に説得力がありました。

  他に見瀧り価格の条件もあって、マリナベンチャーズジャパンを採用することになりました。
  まあ、これだけ杭の本数に差があっては、それだけで大きな価格差になってしまいますが。

 

7−3、メインウオーク、フィンガー、ヘッダー、水路巾
  ポンツーンは一般に主桟橋(メインウオーク)に、各保管艇を係留する桟橋(フィンガー)を櫛の歯のように取り付けます。
  主桟橋(メインウオーク)の根元および頭に幅広のヘッダーを付けることがあります。

  主桟橋の長さはハーバーのレイアウトで決まることですが、幅をどうするかはそのマリーナのコンセプトです。三河御津マリーナではメインウオークをランドカー(お客さまや重量物を載せる)が走り、ヘッダーで回転できるように考えました。30F用の桟橋で幅2メートルあります。

  フィンガーの長さと幅もマリーナのコンセプトによります。係留艇の長さに対し、その70%の長さのフィンガーしか設置しないマリーナがあります。見たことはないのですが港湾基準か何かにそんな例があるのだそうですが、艇長の70%のフィンガーからとる舫綱では、季節風程度(10メ一一トル)の風にも耐え得ないのではないかと思います。小型のボートには船体の中央にクリートが付いていないので、スプリングラインがとれないのです。
  幅は舫綱を確保する力、浮力、安定性等に関わります。三河御津マリーナでは、長さはフィンガー長以上の艇の係留は行わず、幅は30F用で90センチです。


  フィンガーとフィンガーの間に2隻係留するのがダプルスリップ、1隻係留するのがシングルスリップです。その得失は先に述べました。
  フィンガーの間隔、フィンガーの先端と先端との間隔(水路幅)も、ハーバー内の水面の有効活用に関わり、出来るだけ節約したいのですが、そうすると出入りが不自由になり痛し痒しです。
  三河御津マリーナの数字は、「三河御津マリーナ浮き桟橋設置工事基本設計書」に詳述します。

 

7−4、パワーポスト
  マリーナではポンツーン上に電気、水道等のユーティリティを供給するのが普通です。
  供給するものは、「ボート内で使用する電力=クーラー、冷蔵庫、照明、充電等」ボート補修作業のための電力」「桟橋上照明のための電力」「飲料用の上水」「船体洗浄のための中水」「電話」「テレビアンテナ」等です。
註:最近では携帯電話の普及により電話配線はない。

  三河御津マリーナでは100V電源と上水、ポンツーン照明のみとしました。
  「電話」は無線の時代ですし、「テレピアンテナ」は「卓上アンテナ」で充分映るということで実施しませんでした。しかしテレビに関しては、現場でのテストを何度もしてもらった筈なのですが、実際にはヨットのマストにアンテナを上げても映りが悪く、テレビアンテナ配線をすればよかったと後悔しています。
  電源に200Vが必要との意見もありましたが、コンバーターが利用できるということで100Vのみとしました。不満は出ていません。
  電気の容量は、将来満隻時に、給電口4個に1個が30Aフルに使用しても電圧が低下しないとの想定で算定しました。

  これらの配線および照明をパワーポストに格納します。
  三河御津マリーナでの採用機種選定にあたり闇夜を選んで、当時森下がヨットを係留していた東京湾マリーナにポストの現物を運び込んで比較しました。
  闇夜に現場で明かりを点けて判ったことは、ポストの頭に付けた照明では役に立たず、足元を照らすタイプが、ついでに水面に映えて美しいことでした。何事も現場で確認しなければいけないと思いました。ヤマハの推薦を退けて米国ミッドウエスト社の「ドックマスター42」を選びました。

  配電工事コストダウンのため、各ポスト毎、あるいは各桟橋毎の電力・水道のメーターを付けなかったのですが、係留マリーナの居心地の良さにクーラーをつけたまま長逗留するオーナーも出始め、今後メーターが欲しくなるかもしれません。


陸上で組み立てられるポンツーン 表面材の厚みにご注目

初めてポンツーンが海に浮いた

 

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8.建設工事

  海についての基本設計は91年末にはほぼ完了し、土地譲渡契約直後の92年月に工事許可の申請を行い、5月に着工しました。起工式は4月23日に行いました。
  浚渫から始まって、防波堤建設、護岸整備と進み、93年3月に第1船が入港、7月には工事完了しました。一貫して東亜建設工業が実施しました。
  栄えある初入港船は僕の愛艇「Windy HolidayU号」(35F 7t)です。

  陸上は、設計会社は日建設計に決まっていましたが、工事会社については91年8月に日本国土開発鰍ノ決定しました。決定の理由は、マリーナの看板ともなる堅木(ポンゴシ)板張りデッキの施工を、同社が長崎ハウステンボスにおいて手掛けていたことです。それと出光の製油所工事での関係もありました。

  環境保全計画等で実施設計が遅れ、見積り価格が予算超過でその調整のために遅れ、天候不順で工事が遅れ、工事完了は93年10月13日の竣工式直前でした。
 

8−1、出光エンジニアリングの起用
  建設工事に入るにあたり、工事全体の元請を出光エンジニアリング鰍ノお願いすることにしました。
  同社は出光製油所の保全工事を主たる業務にしており、事業多角化のために製油所以外の仕事にも取組みはじめていましたが、といって出光興産の中で社内の工事はすべて同社に発注するというルールはありません。同社を起用することについてはいろいろ意見もありましたが、結果は起用して大成功だったと思っています。

  特にお世話になったのは次の各点です。
   ・環境保全計画の作成
   ・工事各社の施工計画めチェック
   ・工事費の減額
   ・現場の監督

  出光マリンズの陣容は計画当時は2名、工事が始まった段階で3名ですから、ここに挙げたような仕事を出光マリンズが抱えることはまったく不可能でした。すべてお任せしましたが、身内の会社だからこそ安心して任せることが出来たと思います。いくらかの人件費程度の業務料を支払いましたが、とてもその金額には代えられないサービスを受けました
  
特に見積りが予算を超過した際の減額作業は到底出光マリンズの手に負える仕事ではありませんでした。また御津工事事務所に工事期間中駐在してもらった長石所長には、彼の存在だけで5〜6億円は節約になったと感謝しています。



92/10 出光エンジ 長石所長

8−2、業者決定
  三河御津マリーナ建設でお世話になった主な工事業者は次の通りです。
   ・元請            出光エンジニアリング
   ・基本計画          潟}リナス開発
   ・基本設計、実施設計     鞄建設計
   ・照明設計          鰍kPA
   ・海上工事          東亜建設工業
   ・ 同上 スズキとの共有部分 東亜一鈴中工業葛、同企業体
   ・ポンツーンエ事       マリナベンチャーズジャパン
   ・陸上工事          日本国土開発
   ・電気工事          鰍ォんでん
   ・冷暖房他          樺部
   ・給油所工事         潟^ツノ
   ・植栽            内山緑地建設
   ・家具納入          ヤマハ梶A鰍ュろがね工作所

8−3、土捨て場                        
  海の工事が始まりましたが、まず問題になったのが浚渫土の捨て場でした。三河御津マリーナの浚渫土量は、スズキさんと合わせて26万㎥ほどと見積られました。土質にもよりますが、浚渫そのものの工賃はせいぜい㎥あたり数百円です。しかしその土を捨てる場所まで運ぶ費用、捨て方によってはそのための費用が、すぐに数千円になってしまいます。東京湾内の工事では土捨て料が1万円にもなると聞かされました。もとより勝手に捨てるなど、とんでもないことです。

  結論からいいますと、三河御津マリーナの浚渫土はなんと蒲郡の竹島のすぐ裏に入れさせてもらったのです。あの観光地の竹島に土を捨てるなんて、まったく信じられないことでした。
  ブルー&シー計画というのがあるそうです。海を浄化する計画ですが、その施策の一つで、海底に溜まったヘドロの上に覆砂して藻や魚を根付かせ、生物の力で海水を浄化しようという作戦です。高度成長期にポンプ浚渫船で揚土して土地造成した跡が穴ぼこになって、海水が滞留し、ヘドロが溜まったりして海水の自然浄化を妨げています。それへの対策として全国的に毎年予算がついて実行されているそうです。ちょうど竹島裏が対象になり、三河御津マリーナの浚渫土が検査の結果いい砂だったので覆砂用に使用してもらえることになりました。
  三河御津マりーナから直近の場所であり、当方にとっては願ってもないお話しでした。県が意地悪な気持ちを持っていたら絶対にこういうことにはなりません。

  観光地だけに、工事中迷惑をかけることがあってはいけないと心配しましたが、無事に終了しました。

 

8−4、実施設計、見瀧り、減額作業
  陸上工事のメインの業者は91年8月に日本国土開発鰍ノ特命で決定していました。
  しかし実施設計は県との間の環境保全計画が手間取るなどで遅れ、日建設計が建築確認申請を出したのは92年の5月です。
  ただちに日本国土さんに見積りを依頼し、7月に出てきたのですが、それからが大変でした。

  最初に出てきた見積りは当方の予算を80%上回っていました。
  結局契約額決定に10月までかかったのですが、その間、聞くも涙語るも涙の折衝が続きました。日本国土さんだっていたづらに高い見積りを出したわけではありませんから、減額とは設備をやめるかグレードを下げることでしかありません。
  いい絵を描いた日建設計さんはグレードを下げる毎に悲しそうな顔をするし、単価を削られる日本国土さんは恨めしそうな顔をするし、設傭を諦めなければならない森下は身を切られる思いで、辛い巌しい期間が3ヵ月も続きました。出光エンジが間に立って、献身的な努力をしてくれました。             
  結果として契約額は予算以内に収め、最終的にも会社から与えられた予算以内で工事を仕上げました。日本国土開発さんには大変な努力をしてもらったと思っています。

  この時の減額作業で削った主なものは次の通りです。
   ・クラプハウス棟、ロッジ棟
     屋根、樋、床、内装等、すべてにわたって見直した。ただし建物のアール、外壁のタイルなど基本コン       
     セプトは守った。
   ・修理工場
     間口を4メートル狭めた。
   ・サービス事務所
     1億円の建物を1千万円のプレハブにした。
   ・回廊
     木製デッキの回廊がもっとふんだんに配されていたのですが、割愛Lました。
   ・屋外トイレ
     2ヵ所、取り止めました。
   ・駐車場屋根
     オーナー駐車場の屋根を諦めました。
   ・植栽
     植木を半分に減らしました。
   ・フェンス、門扉
     見積りの5分の1にグレードダウンしました。
   ・駐艇場舗装
     コンクリートから半剛性アスコンにした。

  この時の苦労から一言言いたいのですが、公共工事の工事費は絶対に高いですね。

 

8−5、建設工事
  建設工事については出光エンジにすっかりお任せしましたので、出光マリンズとしてはノータッチでした。月にl〜2回の定例会(IMM)に出る以外は、もう運営の方にかかりきりになりました。

  すでに営業活動、組織の基礎固めが始まり、工事期間中、森下は東京、杉山は名古屋、浜谷は現地と、3名のスタッフが3ヵ所に分かれて活動しました。
  現場に入った時は、森下は船で、杉山は車で寝泊まりする状態でした。

  海の工事では、心配した浚渫・土捨てによる海洋汚染もなく、期間中台風もなくて、すこぶる順調に工事を終えました。
  記憶に残っているのは、浚渫の界隈で大きなアサリがとれて多勢の人が集まったこと、2月3月頃港内にシラス(うなぎの稚魚)採りの人が入り込んだことなどです。それだけきれいな海なのです。
  現場作業の活況で現場に置いた自販機の売上歩合が1台あたり7〜8万円/月にもなり、これはこれはと開業後も期待したのですが、現在はさほどはありません。

  陸上工事は、見積り修正でスタートが遅れたことと、93年の7月8月が非常に天候不順で工事が遅れました。10月1日の開業が危ぶまれたのですが、とにかく開業にこぎつけ、10月13日の竣工式にはきれいに仕上げて頂きました。

  なお定例会(IMM)は91年夏頃から開業した93年10月まで聞かれましたが、その期間中に、会議の主要メンバーであった日建設計の赤川さん、東亜建設工業の荒井さん、マリナス開発の尾田さんが結婚しました。まことにおめでたい限りであり、三河御津マリーナの建設がいかに若い力に支えられていたかを物語ります。
  また森下の一人娘明子も、93年6月に結婚したのでした。


給油桟橋の進行

建設工事が進む

8−6、植栽
  植えたい木はたくさんありました。特に楠を植えたいと思いました。大樹に育って、こんもりと繁れば夏の日差しにいい木陰を作ってくれると思ったからです。しかし塩に弱いと言われました。
  一番植えたくなかったのが椰子の木でしたが、日建設計からそれではマリーナの雰囲気が出せないと言われて、正面にキャナリイヤシを何本か植えました。
  今となると、公共の施設に背の高い椰子や値段の高い木がふんだんに植えてあるのを見ると、いいなあ、税金で贅沢しているなあとジェラシーを感じます。
  とにかく当初予算を半分ほどに落としました。10年もたたずに木は伸びてくれますから。

8−7、家具選定
  家具は、家具屋さんからの提案をすべて日建設計の赤川さんがチェックしました。家具屋さんもだいぶ泣かされたのではないかと思います。
  基調は、ややクラシヅクな南欧風、です。
  家具屋さんは「ヤマハ」と「くろがね工作所」ですが、出光マリンクラブに入ってもらうことを条件にしました。

8−8、初入港
  93年3月、外回りの防波堤だけ完成した三河御津マリーナに、森下の愛艇「ウインデイ・ホリデイ
II」が入港しました。従業員の教育を兼ねて、東京湾マリーナから回航してきたのですが、感激の初入港でした。


8−9、火入れ
  製油所や工場ではありませんから「火入れ」というのはないのですが、工事の遅れで、レストランの厨房に火が入ったのがようやく9月27日でした。予定通り10月1日に開業しましたから、コックさんは大変だったと思います。

 

  

361/77S2アンカレッジ(船溜まり)
★タイトル(
CAPTAIN93/ 3/28 11:12 48
三河御津マリーナ第1船入港!        黒潮丸

★内容
予定通り、25日14時前後7名全員東京湾マり一ナ「ウインディ・ホリディU」に集合.森下、柴田、杉山、渡部、戸塚.それに助っ人のTAKA、大川.

TAKAさんと連れの大川さんは到着するやたちまちファーリングジブを下ろしてステイのチェック、マストに登ってブロック類のチェックと手際よく仕事を進める.
うちの連中は目を丸くして見ている.これが勉強.
とにかく一人をのぞきまったくヨット経験のない連中です.ただし本船の一等航海士が二人.

16時頃、強い西風が吹き、嫌な気分になったが出港予定時刻の18時にはおさまる.

TAKA組と大川組、3人づつの4時間ワッチを組む.
僕だけたまにはオーナーでのんびり威張っていたいとワッチを外れたのだけど、結局うちの連中はみんな途中酔っぱらってしまって、僕は最後まで食事当番ということになってしまいました.

航海はまさに順調.
爪木と神子元の間で多少悪い波はありましたが、連れ潮に乗って下田口を過ぎたのが朝7時半、半分居眠りしながら駿河湾口を渡り、御前崎12時半.

気温は寒からず暑からず.弱い追い風.半曇り.

嫌味な遠州灘をとんとんと過ぎて、なんと伊良湖水道に21時40分に入ってしまいました.平均6.5ノットを超えています.
暗い中でかすかに伊良湖岬や神島のシルエットが見えます.遠くに鳥羽方面の明かりがまたたく.この伊勢湾口の外側のあたり、なかなかの景色のようです.

三河湾に入ってからは時間潰しです.停泊している本船のまわりをぐるぐる回ったり、2−3ノットで流したりしながら明るくなるのを待ち、27日5時半、三河御津マリーナの港内に入港しました.

4年前から手掛けて、やっと許可をとり、昨年5月からの工事で外郭の出来上ったマリーナに感激の初入港です.
もちろん作業鉛を除いては第1号の入港です.

ああ、やった!
マイポート「ウインデイ・ホリデイ
II」号で最初に乗り込むために、これまで頑張ってきたような気持ちがしています。

これは僕にとって、家内と結婚したこと、秩父宮ラグビー場でトライを決めたこと、22年前に初めて自分のクルーザー・プルーウオーター21を購入したこと、と並ぷ、我が人生最高の快挙です。

まだ工事用の枠板の残る防波堤の聞を進めて入ったこの朝の入港を、生涯けっして忘れることはないでしょう。

 今回の航海そのものは、まあこれから10年こんなことはないのではないか、と思う程順調な航海でした。
でも冬の海、一つ間違ったら泣きの涙のカッパ踊りですからね。無事で良かった。

                              CAP.

 


左から 柴田(ハーバーマスター) 渡部(2代目HM) 森下 高槻(海童社−当時) 大川
 

 

Home ページTop 1-御津マリーナ建設の経過 2-なぜマリーナか 3-マリーナ建設の環境
4-マリーナの事業計画 5-マリーナの許可 6-基本設計 7-ポンツーン 8-建設工事
9-運営の検討 10-マリンクラブ 11-社員採用、教育 12-開業  ページ末尾

 

9.運営の検討

9−1、運営会社設立
  土地と設備を出光興産が持ち、出光興産1 0 0%出資の運営会社を設立することは、事業計画当初からの方針でした。
  運営会社設立は、御津町との公害防止協定締結に照準を合わせました。運営会社が協定の当事者であるべきだと考えていたからです。

 

9−1−1、社名
  会社設立にあたり、まずそのネーミングに悩みました。
  絶対に「出光」を頭に付けさせてもらいたいと思っていました。出光ほどの大組織になると子会社でも必ずしも出光を名乗れないのです。
  「出光」があれば、どこへ行っても一々会社の由来を説明せずに済みます。保証金などをお預かりする場合にも、お客様の信用度が違ってくるでしょう。これだけは強く願っていたのですが、なんとなくうまくそのように運びました。

  それとマリンに関係のある言葉を使いたい。名は体を現すといいます。「出光マリン」というのが一番落ち着きが良いと思ったのですが、既に出光タンカーの子会社に同名の会社がありました。それを寄越せとは言えません。「出光マリーナ」も考えましたが、「マリーナ」では出光のマリン事業としてちょっと意味の巾が狭いように感じられます。

  勝手に考えて勝手に名前を付けては社内でのおさまりが悪いので、コンサルタントのマリナス開発さんに社名、社章、ロゴ、カラーを合わせて提案してもらうことにしました。
  名前だけで98個も考えてくれましたが、その中から現社名の「出光マリンズ」を選びました。語呂がよく、意味合いも広く、しかも会社の業務内容を現しでいていい名前だと思います。

  マークの方は、最初出光のアポロマークのデフルメを狙いました。例えばお酒の白鶴なんかが昔からの鶴をモダンにデザインし直しています。その線でいくつも考えたのですが、これは出光の広報に拒否されてしまいました。アポロマークを勝手にいじってはならないということです。
  そうなると船とか帆の絵になります。これは古来のテーマで、どんな組み合わせにしてもどこかの商標登録と抵触するのではないかと思いましたが、幸い現社章で登録することができました。カラーはアポロマークの赤です。

9−1−2、本社所在地、資本金他
  新会社の本社は丸の内の出光本社内におきました。社内の調整をはかるためにも、いろいろと官庁許可を取得してゆくためにも、また将来弟2第3のマリーナを作る時にも、出光本社内にある方がよいと考えました。

  しかし実際に場所を確保するのは大変でした。総合計画部は出来るだけ目の届く場所に置いておきたいし、新会社としては建設関係および営業絡みの人の出入りを考えてそのスペースが必要だし。
  幸いなことに総合計画部が使っていたワークルームが本社ビル内6階にあり、そこの半分を空けてもらいました。デスク三つと、4人掛けのテーブルが置けました。それにワークルームの8人用会議テーブルが殆どフりーに使えましたから願ってもない本社になりました。

  資本金は、出光興産自体の資本金が小さいため(10億円)、あまり大きく出来ない制約がありました。
  また土地と施設は出光興産で所有し、運営会社は家賃を支払う形をとるため特に大きくする必要なく、事業開始までの経費を賄う8千万円としました。

 

9−1−3、事業目的
  会社の定款に事業目的を記載しなければなりません。社内の法務や司法書士とあれこれやりとりがあって、次のように確定し、92年3月16日をもって登記しました。

    (目的)              

   第2条 当会社は次の事業を営むことを目的とする。
       1、マリーナ施設の運営
       2、マリンスポーツクラブの運営
       3、マリンスポーツ用品の開発、賃貸、販売
       4、マリンスポーツの技術指導、教育
       5、船舶の保管および修理
       6、船舶の製造、賃貸、販売
       7、ホテル、レストランの運営
       8、海上旅客運送業
       9、旅行斡旋業
       10、損害保険代理業
       11、燃料、潤滑油の販売
       12、前各号に付帯関連する一切の業務。
 

  ご注目いただきたいのは、この中に不動産開発・売買の項目がないことです。この時期はまだバプルの余韻が残っている頃で、レジャーがらみの仕事で不動産利得を狙うのは当然と考えられていました。
  そういう風潮の中で敢えて不動産開発`・売買を事業目的に入れなかったのは、自らを律して現業に徹する心意気を示したつもりだったのですが、今となっては当たり前と思われるかもしれません。

 

9−2、保管契約
  保管契約を作成する上で問題となったのは次の3点でした。
    I)契約は舟艇の保管契約か、係留施設の使用貸借契約か。
    2)艇を預けている権利(?)は譲渡可能か、不可か。
    3)マリーナ内における営業行為をどうするか。

  1)は契約の本質が、お客様の艇の「寄託契約」か、係留場所の「賃貸借契約」かの問題です。どちらがマリーナにとって有利であるかは、必ずしも一概に言えないようです。詳しくは後述の事例研究に譲ります。
  三河御津マリーナの場合、どちらかというと寄託契約寄りの内容で、両方を含んだ複合契約となりました。

  権利の譲渡も大きな問題でした。
  茨城カントリークラプなどゴルフ会員権の乱脈販売が社会問題化する直前であり、まだ売手市場であったマリーナの係留権を譲渡可能にして高額な入会金を集めることは魅力でした。
  さんざん悩みましたが、
F譲渡可能にするとどんな人が入ってくるか判らない」「譲渡に会社側の審査を条件付けるとしても、債権譲渡の自由は債権者の大きな権利であり、会社が拒否することは実質難しい」との判断で、権利の譲渡は出来ないものとしました。
  その後マリーナに関わる需給は逆転し、高額入会金を設定したマリーナの現状がどうなっているかは先に述べました。

  マリーナにおける営業行為については独自の考えを持ちました。
  これまでのどのマリーナの契約書を見ても、例外なく「マリーナ内における営業行為の禁止」をうたっています。これは、シーボニアをはじめとするわが国の主要各マリーナが保管契約書を作るにあたってモデルにしたのが、横浜市民ヨットハーバーとか湘南港江ノ島ヨットハーバーといった公共マリーナであった影響が大きいと思います。また民間マリーナとしては、マリーナに関わる営業は自分でやりたいと思っていますから、オーナーや他社の営業行為は禁止したい気持ちがあります。
  しかし今後の係留型マリーナにおいて、マリーナ内の営業行為を完全に禁止できるものでしょうか。例えば乗合の釣り舟がマリーナを発着すること、これはむしろ歓迎すべきことだと考えます。企業が所有して係留している大型ボートをその企業の顧客サービスに使用する、これも営業行為に近い行為です。
  三河御津マリーナでは、通常の保管契約では「自ら使用するレジャーボート」を対象とし、営業目的で保管委託する場合は別途契約としました。

 

9−3、保管料
  三河御津マリーナの料金レベルは、近隣の競合先であるヤマハマリーナ浜名湖と、日産マリーナ東海と同レベルにすることを基本に考えました。
  どちらもメーカー系の大手マリーナであり、モデルとすべきマリーナです。当方が新しいだけ設備的には優れているかなとは思いましたが、歴史、格式の点では劣ります。同レベルでいくことにしました。

  具体例でいうと、30フィート艇の陸置き保管料が、三河御津マリーナ700千円、ヤマハ浜名湖860千円、日産東海680千円です。これに提降料、船台料などが加わるので一概に比較できないのですが、ほぼ同レベルです。これに対し、もう少し格が落ちるところは450〜600千円となります。

  運良く(?)漁港に置けた場合は年間7万円程度の管理料ですみます。ただし上下架には自分でモビルクレーンを依頼手配せなばならず、台風の時は寝ずの番をしなければなりません。森下の経験からいって、漁港にアンカーとロープで繋ぐのと、マリーナのポンツーンに舫うのとでは、遊びの種類がまりきり違います。

  これまで陸置き主体のマリーナでは、通常フィート刻みの料金体系になっています。両社もそうなっていました。しかし当方は係留主体であり、係留の場合預かる艇の大きさに関わらず提供するスリップの大きさでマリーナが提供するスペース、機能が決まります。そこで5フィート刻みのスリップに合わせた料金表となりました。最小のスリップを30フィートとしたので、小型艇(25フィート以下のクラス)にはやや割高な感じを与えることになりました。
  一方、40フィート超の大型艇については両社よりもむしろ割安となりました。

  こうしてどちらかというと大型艇を狙った価格体系になったのですが、バプル崩壊後の現在大型艇が伸び悩み、若干方針の修正を迫られています。具体的には27フィート以下の価格クラスを新設したこと、陸置き艇についてはフィート刻みとしたこと等です。

  シングルスリップについては、これまで存在しなかったサービス形態ですから、ヤマハ日産より高いとか安いの比較はありません。
  水域の占用スペースが増えること、フィンガーの設備費負担が増えること、ユーティリティのコストが増えること等のコストアップ要因を考え、同サイズのダブルスリップに比べ17〜18%高に設定しましたが、これは今考えてやや低すぎたと感じています。25〜30%高とすべきでした。

 

9−4、修理工場
  マリーナにおいて修理の機能は非常に重要です。車よりも修理の場所が限られるだけに存在感が大きいのです。

  三河御津マリーナの建設にあたりヤマハさんから土地の紹介を受けた経緯を先に述べましたが、そのヤマハさんから「修理工場をやらせて欲しい」との申し入れを最初からうけていました。
  出光にはボート修理のノウハウはありません。ヤマハにお願いするしかありませんでした。またその方がお客様には安心を与えるだろうと思われました。
  しかしうちの構内にヤマハの施設を建てられるのも困ります。当方の施設として修理工場を作り、ヤマハに運営してもらうことにしました。契約の形態を業務委託契約としました。保管艇あるいは外来艇の修理を一旦出光マリンズが受注し、それをヤマハサービスセンターに業務委託します。

  契約で問題になったのは次の点です。
   1)ヤマハ以外のボートでも、すべて修理に応じてもらいたい。
   2)ヤマハ以外の業者にも、修理工場の使用を認める。
   3)ヤマハと出光の休日体制の調整。
   4)委託料。
  このうち委託料については、出光が受注した金額とヤマハに修理業務委託する金額との差が出光の収入になるように取決めました。

  ヤマハ側の問題は、ヤマハ自体の修理・艤装工事をここでやりたいということでした。ヤマハ中部に、海に面した修理工場が他にないのです。三河御津マリーナに関係なくヤマハが独自に販売した新艇の艤装工事、ヤマハが販売した艇のアフターサービス工事等 をここでやりたい希望でした。これらに対しては工事金額から歩合をもらうこととしました。不景気で、新艇の艤装は最初思ったほどではありませんが、それでも初年度からヤマハのサービスマン6名の仕事量 が確保出来たようですから、順調な滑り出しと言えます。

  マリーナとしてはこの他にマリーナ自体で行う自社作業があります。主として揚降作業ですが、メンテフリーシステム(契約客の艇の定期メンテを行うもの)や、さほど技術を必要としない船底掃除・塗装等を自前で行っています。閑散期にうまく配分出来れば、マリーナとしてはいい仕事です。

 

9−5、レストラン
  マリーナのレストランが保管艇のオーナーやクルーの飲食では維持出来ないことは判っていました。とにかくレストランは一般客を対象にする、オーナーに不満が出てもオーナーだけではレストランを維持出来ないのだ から仕方がない、と割り切っていました。

  それでは一般客を誘致出来るのか? これが問題でした。
  マリーナ運営の立場からすると、レストランのないマリーナではしかるべき係留料金がとれないことになります。しかし採算は合いそうにない。ではサービス施設なのか。

  出光社内で事業計画を検討する段階でも、レストランのあり方についての議論は白熱しました。皆さん、マリーナの業務についての判断はしようがないのですが、レストランと駐車場には一家言をお持ちです。
  総じて、<レストランは採算がとれない><出来たらやめたい><もしやるにしてもミニマムの体制で>というのが大勢でした。
  そんな経過で、レストランの面積は削られていきました。

  最初から自営することは考えませんでした。コック、料理人を使っていけるとは思わなかったからです。請負、あるいは委託先の募集にかかりました。最初、サントリー、キリン、味の素などのチェーンに当たってみました。しかしどこも乗り気になりません。季節変動が大きく、加えて休日だけの稼働では商売にならないとの判断です。その他、個々に当たってみましたが、どこも同じような反応でした。

  どこかにやってもらわなければなりません。焦りました。そこで思いついたのが社員食堂の請負先です。大手の会社の事務所や工場の食堂は、昔は殆ど自営だったのでしょうが、現在では専門業者が運営にあたっています。出光やヤマハの工場に入っているこの世界の大手(シダックス)に声をかけました。乗り気でやる気を見せました。
  当然です。食堂、椅子テーブルは勿論、食器から何から、すべてこちらの負担です。そして食材も人件費もすべてをこちらが払って、そしてなお10%の管理費を払うのです。今時、こんなにまったく自分はりスクを負わないビジネスがあるでしょうか。話をするのも嫌になりました。

  この間レストランについてのコンセプトを、次の2本柱にしぼりました。
   ・和食はやらない。
      和食は新鮮な材料が命です。需要変動が激しいレストランでは新鮮な材料をロスなく使うのは難しい
      だろう。
   ・勤め人目当てのの昼食は出さない。
      近隣のサラりーマンの昼食需要を当てにすると、それなりの価格レベルになってしまう。そこは狙わ
      ない。
      昼食で2千円以上の客層(有閑夫人、ピジネスランチ)を狙う。

  そうこうしているうちに、あるところから豊橋でスパゲッテイ屋を3軒ほど営業している人物を紹介されました。是非マリーナでレストランをやりたいということです。
  話し合ってみて、まずその熱意に打たれました。何をやるにしても仕事に情熱がなけれぱいけません。彼には情熱がありました。また2本柱についても意見が合いました。
  東京の大きなチェーンなどに比べて、もしうまくいかなかった場合のリスクに不安はありましたが、何よりも事業にかける彼の情熱を信じて、彼と契約することにしました。「プルーモメント」の鈴木さんです。

  形態はビュッフェスタイルのイタリアン・レストラン、家賃は売上に対する歩合としました。
  結果は、現在のところすこぶる順調です。

  社内で事業計画を議論し、マリナス開発にマリーナのレストラン実態調査を依頼した頃には、売上は年間6千万円を超えればいいだろうと言っていたのに、実際には最初の1年間で1億8千万円の売上となりました。
註:昼食2時間待ちの状況が5年も続きました。ボートオーナーには艇まで出前してくれます。

 

9−6、ショップ、PW(マリンジェットミ)
  全国のマリーナのショップで、ペイしているところはどこでしょうか。
  葉山マリーナくらいなものではないでしょうか。

  マリーナのショップだからといってマリンの用品はまず売れません。店を維持するだけは絶対に売れません。いわゆるプロショップは成り立たないのです。全国のマリーナをまわっていましたから、それは判っていました。
  といってショップ無しでは困ります。レストランと同じです。

   折しも三河御津マリーナでPW(パーソナル・ウオータークラフト)のショップをやりたいという人が現れました。マリーナを見下ろす山の上にある料理屋の息子さんです。最初はマリーナのレストランをやりたいと言って来たのですが、和食はやらないとのコンセプトで諦め、代わりにPWを扱わせて欲しいとなったのです。

  マリーナでPWを扱うかどうかは問題でした。ヤマハははっきり反対意見でした。音が喧しいし、ちょろちょろ走るとクルーザーの邪魔になるとの理由からです。しかし、若い人が集まるのはいいことです。賑わいになります。クルーザーオーナーはとかく年寄りが多いのです。それにクルーザーより入艇が旱いと予想されました。
  結局陸置きスペースからボート8隻分を潰してPW置場としました。ラックにすれば将来100台までPWを収容可能です。
  それにしてもPWのショップだけでもなかなか成立しないでしょう。ついでにマリンショップもやりませんかと勧めました。マリーナ直近の地元の青年であり、料理屋というのも何かと便利で、いい人と契約できたと思っています。「呑龍」の波多野さんです。初年度で4千万円の売上となりました。

 

9−7、安全管理規程
  すべて大事なことばかりですが、マリーナの運営にあたって何よりも優先すべきは安全の確保です。
  まして三河御津マリーナではマリンクラブの運営が大事な柱になっています。お客様を船に乗せる仕事で、万一事故を起こしたら事業そのものが止まってしまいます。
  事業開始に先立ち、「安全管理規程」をまとめることが最大の課題でした。

  ハーバーマスターを中心に検討に入ったのですが、最初の関門は倣うべき先例のないことでした。
  マリーナの運営については日本マリーナ・ビーチ協会のテキストが一応の指針になりましたが、社内のマニュアルとするにはまだまだ不足です。例えばクレーン操作の際の人数や役割を決めねばなりません。台風対策の諸準備作業を決めねばなりません。緊急時の諸対策を決めねばなりません。マニュアルとなると、誰が何をするのレペルまで決めなければならないのです。

  それより何より大変だったのはマリンクラブ艇運航に関わる運航管理規定の作成です。プレジャーボートの運航管理をどう定めるのか。とにかく先例のない規定です。先例がないというのは、目次がないことです。目次さえあれば何を定めるべきか判るのですが。
  出光タンカーの規定とか、観光船会社の規定などを集めました。出光製油所の規定も集めました。帯に短し襷に長し。隔靴掻輝。
  とにかく苦労して作成しました。

  現在百数十頁のマニュアルになっていますが、まだまだ加筆訂正が続いています。
  これだけ苦労して作ったものですから、今後このノウハウを売れるものなら売っていきたいと考えています。

 

9−8、事務管理システム
  出光興産には立派な情報システム部があり、頼めばどんなシステムでも作ってくれます。いろいろと相談し、助言はもらいましたが、頼む気にはなりませんでした。理由は、ここで作るシステムは千葉にある計算センターの立派なホストマシンを使用するものだったからです。マリーナの仕事にその必要はありません。

  マリーナの計画を進め建設にかかっている間に、2件の事務管理システム共同開発のお話がありました。
  1件はシーボニアを経営する朝日海洋さんからのお誘いです。コンセプトを聞きましたが、決算処理まで含んだ巾広いシステムでした。特に気がついたのが、入出港の管理に力点を置いていることでした。これは陸置き型マリーナであるため、事前下架揚降料精算、帰港タイミング把握等が大きな仕事量になっているからです。その点、三河御津マリーナは係留型であり、入出港管理にはあまり関心がありません。この開発は最初からあまり完全なシステムを考え過ぎていたような気がします。その後完成されたかどうか知りません。

  次にヤマハさんからお話がありました。これも「オーナー管理」「入出港管理」「給油システム」「修理点検記録」「販売管理」「会計システム」をもったトータルシステムです。結局参画をお断りしたのは次の理由によります。
   1)オフコンベースであること。
      当社はパソコンでいいと考えていました。
   2)負担金が2千万円と高額である。
      数百万円以内と考えていました。
   3)ヤマハにすべてのデータを握られるのではないかとの不安がある。
  このシステムは立派に完成し、浜名湖、琵琶湖のみならず、小樽、横浜などでも有効に活用されているそうです。またオフコンという点も改善され、パソコンソフトで600万円程度のパッケージにして販売されているようです。

  この他二つのシステムを検討しました。
  一つは出光オンラインPOSの決算システムです。これはいかにもマリーナの現場管理には不向きでした。
  もう一つは東京湾マリーナで使っていたパソコンによる「マリン整備業システム」です。これはやや間口が狭く、採用に至りませんでした。

  これらのシステム検討は比較的余裕のあった92年春から秋頃行ったのですが、93年に入ると毎日が嵐の連続となり、とてもシステムを検討するどころではなくなりました。結局、会計・決算と給与はオーピックのパッケージソフトを30万円程度で購入し、支障無く運用しています。
  給油管理システムと、保管料等の自動引き落としは出光クレジットシステムを利用しています。
  売上および顧客管理の部分はシステムを導入できないまま開業に突入し、手作業でみんなに大変苦労をかけてしまいました。最近になりようやく、既存パッケージを手直しした顧客管理システムを120万円で導入しました。
  あと「売上管理」「修理工場管理」「マリンクラプ管理」の業務処理システムが欲しいのですが、出光マリンズの社員のレベルも上がってきており、どうやら自分たちで作る気になっているようです。

 

 

      
    

  マリーナに係わるトラブルの事例研究

                                     

 これまで講習会や弁護士、社内法務などで聞きかじった知識のまとめです。
マリーナ開業にあたり、こんなことも真剣に研究しました。 森下

設問1、損害賠償責任

甲マリーナでは、乙との艇置契約に基づいて、乙所有の艇を保管していたところ、夜間何者かがマリーナ内に侵入し、当該艇が盗難にあった。
甲は乙に対して損害賠償義務を負わなければならないか。

なお、契約書には、
 (1)乙は、乙の責任と負担において艇を保守する。
 (2)第三者による艇およぴ付属品に対する毀損、盗難等による損害、その他甲の責めに帰する
    ことのできない事由によって発生した損害については、甲は賠償の責めに任じない。
との条項が定められている
.

「解釈j
私人問の契約は「契約自由の原則」により、どのように取り決めようと自由である。ただし、強行法規(契約のいかんに関わらず強行される法規)に反する契約、および公序良俗に反する契約は無効である。

このケースの場合、艇置契約が「賃貸借契約」か「寄託契約」かにより対応が異なる。

 賃貸借契約 置き場所を貸す契約である。
  →使用収益させる場所を特定しなければならない。
   使用者はその場所を占有使用できる。
   ただし水面係留の場合、そこが公有水面だと他人に占有使用させる契約にほ問題がある。
   使用者にある種の既得権(居住権のような?)が発生するおそれがある。

 寄託契約 物を預かる契約である。
  →保管義務が生ずる。
   善良なる管理者としての管理責任が間われる。
   置く場所はマリーナの自由である。

設問において、賃貸借契約であれぼ契約通りマリーナに損害賠償羞務ほないであろう。

寄託契約の場合は、マりーナがどこまでの管理をしていたかが問題となる.世間常識的に充分な管理をしていて盗難にあったのなら、損害賠償は免れるであろう。その判定は裁判所が行なう。

しかし一般に艇置契約は寄託と賃貸借が入り交じった契約になっており、マリーナは善管義務は果たしておかなければいけない。

 

設問2、譲渡・転貸の承諾義務

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乙は、甲マリーナとの間で艇置契約を飴ぶにあたり、入会金として年間艇置料の5倍に相当する1500万円を支払ったが、事情により艇を友人に売却することになったので、甲に対して、艇置契約上の地位を友人に譲渡することの承諾を求めてきた。甲はこの譲渡を承知しなければならないか。
また、甲が譲渡を承諾しないため、乙が甲に隠れて又貸しをした暑合、甲は契約を解除することができるか。
なお、契約書には、
 (1)契約期間中、乙の都合で契約を解約する場合には、理由のいかんを間わず、甲は入会金を
    返還しない。
 (2)乙は本契約から発生する権利、義務を他に譲渡し、又は担保の目的に供してはならない。
との粂項が定められている。

「解釈」
「債権譲渡の自由」は強行規定であり、債権者の権利である。しかし契約上の地位の譲渡は、債権・債務の複合休であり、すっきりとした債権譲渡とは言いがたい。

艇置契約が寄託契約であれば、マリーナは乙が契約上の地位を譲渡した第三者に対抗できないのではないか。つまり一方的に艇を放り出すことはできない。

賃貸借契約であれぼ、譲渡には甲の同意が必要である。

一方、高額の権利金を徴収する場合は権利に譲渡性を付与したものと解釈される可能性があり(ゴルフ場の会員権指導)、このケースのように1500万円もの入会金をとれぱ譲渡権を認めたものとみなされるであろう。

いづれにしろ、契約書に(1)(2)の条項を入れておくことはそれなりに有効である。
 

設問3.料金増額の可否

甲マリーナでは、乙との艇置契約を更新するにあたり、艇置料を従前より20%増額することにして、乙に通知したところ、乙はこれを不服として、従前より5%アップの料金を供託するに至った。
甲は乙に対してその差額分を請求することが出来るか。また、甲は契約を解除することができるか。

なお契約書には、
 (1)甲は、物価の上昇・その他経済情勢の変動等の事情により不相当になったときは、料金の
    増額を請求することができ、その場合乙はこれに従わなれぱならない。
 (2)甲は、乙が本契約に定める義務を怠ったときは、契約を解除するごとができる。  
との条項が定められている。

「解釈」
お互いの合意=契約は守らなければいけない。
しかし継続する契約の場合、「事情変更の原則」というのがあり、著しく不公平な一方的変更は認められない。

5%が適当か20%が適当かは、最後は裁判所の判断である。

供託しているなら、契約解除はできないだ・ろう。

甲としては公租公課の変動、周辺マリーナの料金変動等、できるだけ具体的に数多くの変更条件を書いておいた方が良い。また、「甲乙協議の上、改定できる」という契約は非常に拙い。「甲は、・・・改定できる」としておきたい。

 

設問4、契約解除事由

甲マリーナでは、乙との間で艇量契約を締結したが、乙は、他の利用者に対して度々粗暴な行動や卑猥な言動を用い、甲がこれを注意しても暴言を吐いて一向に従わない。甲は乙に対して、契約を解除することができるか。

なお、契約書には、
 (1)乙は、甲の施設内において、甲又は他の利用者に迷惑を及ぼす行為をしたときは、甲は、直ちに本契約を解除することができる。
との条項が定められている。

「解釈」
この規定は有効であり、契約解除できる。ただしそれなりの客観性が必奏であり、証拠・証言などを集めておいた方がよい。

 

設問5、現状回復の手段

甲マリーナでは、乙が艇置料を支払わないので、乙との艇置契約を解除したが、乙は自己の艇を一向に引き取ろうとしない。甲は乙の艇を撤去して処分することができるか。

なお、契約書には、
 (1)本契約か終了した場合において、催告するも乙が艇を引き取らないときは、甲は、乙がその所有権を放棄したものと認め、当該艇を艇置場所より撒去処分することができ、乙はこれれに異義がない。
 (2)前項の場合において、乙が金銭債務の支払いを遅滞しているときは、乙は、当該艇をもって債務の弁済に充てることに合意し、甲において当該艇を売却処分したうえ上記債務を精算することに異義がない。
との条項が定められている。

「解釈」
法には「自力救済禁止の原則」があり、債権者が勝手に債務者の商晶を処分したりすることはできない。仮処分の申請、競売公告等、裁判所の手続きとなるのはそのためである。

「代物弁済契約j、その「仮登記」等の方法はあるが、艇保管契約に際してそれが実行できるかどうか。
やはり、契約書に書いてはあっても、売却処分についてはあらためて乙の同意をとる方が無難である。

・艇置料を払っていないという理由で上下架を拒否できるか。
 →契約同時履行の原則から、払うまでは動かせないとは言えるだろう。

・艇置斜を払っていない艇の、オーナーによる搬出を拒否できるか。
 →寄託契約であれぱマリーナに留置権はあると考える。賃貸借契約だと、マリーナに留置権はないのではないか。しかし実際には契約はその複合体である場合が多い。自力救済ではなく、それこそ法に救済を求めたらよい。

 

註:極端にマリーナが不足していた時代の検討である。現在では艇置料の5倍の入会金をとれるマリーナはない。
 

 

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10.マリンクラブ

10−1、マリンクラブとは
  「マリンクラブ」という言葉がすでに市民権を得たかどうか判りませんが、マリン業界において「マリンクラブ」とは、入会金・保証金・年会費等を徴収してプレジャーボートを会員の使用に提供するシステムです。システムによりボートの大きさ、船長・クルーが付く、付かない等の違いがあります。

  池やお濠での手漕ぎポートレンタルや、海水浴場での貸しボート・ヨットに比べて、エンジン付きボートのレンタルとなると船価も高くなりますし、エンジントラプル、人身事故の心配も増え、なかなか不特定多数への貸出は難しく、そこで会費を納入する限定した会員向けのレンタルシステムが発生しました。

  86、7年頃よりそんな動きが出てきたのですが、折からのバプル景気、リソートプーム、マリンブームに乗って、急激にあちこちで「マリンクラプ」が輩出しました。
  マリンクラブブームを支えたのは、世の中に下記に挙げるニーズがあったからと思われます。
   ・プレジャーポートに憧れは持つが、自分で扱う知識・経験がない。
   ・自分で船を持つには高額すぎる。自分でメンテナンスする経験がない。自信がない。
   ・係留場所がない。
   ・陸の行楽地は満員。車もこれだけ普及した。これからはマリンレジャーだ。
   ・人手不足の折から、トレンデイなマリンクラブに入っていれば従業員対策にもなるのではないか。
   ・接待用に使える。

  当時会員募集を始めた会員制マリンクラブは大きく三つのタイプに分けられます。
   1)会員が自分で運転することを前提とした比較的小型のポートを貸し出すタイプ。
     すでに河川、港湾内などで陸置きマリーナを運営していた会社が始めたケースが多い。
     会員は個人が主体で、バプル崩壊後も堅実に運営を続けています。
   2)数千万円〜億以上の豪華クルーザーを用意して、高額な初期費用を徴収するクラプです。運航は専任の
     船長・クルーが行うのが普通でした。
     その当時、5百万〜1千万円の入会金・保証金を集めるのは容易であったため、手軽に開業したケース
     が多いのです。本格的なマリーナは都会に遠く、また自社以外の営業行為を禁止していたため、都会に
     は近いが設備不十分な睦置きマりーナに間借りしたものも多かったようです。マりーナの間借りすら出
     来ず、発着場所だけ確保してスタートしたマリンクラブもありました。要するに会員権を販売して資金 
     を集め、ポートだけ揃えた手軽なクラブです。現在、多くは雲散霧消しています。
     中には入会金と保証金で1口1億円、年会費は1500万円というクラブもありました。食事はホ
     テル・オークラからのケータリングで、1回出航すると60〜70万円かかりました。今はどうなって
     いるのでしょうか。
   3)こういったマリンクラブブームを本物と読み、しっかりした基地を基盤に大手が展開したクラブもあり
     ます。朝日海洋やヤマハのマリンクラブです。なかでもヤマハマリンクラブは89年春の発足ですが、
     新聞広告を1〜2回出しただけで募集ロ数の100口が埋まってしまうという華々しいスタートでし
     た。

  不況下の現在、企業の交際費、福利厚生費の削減で苦労はしているようですが、ポートを持たない人にもマリンレジャーに親しんでもらえるシステムは、いづれ根付いてゆくものと思われます。

 

10−2、出光マリンクラブのシステム
  マリンクラブは出光がマリン事業に進出する理由の中で、マリーナ建設と並んで大きな位置を与えられています。それはマリンクラブが多くの人々にマリンレジャーを提供する手段であり、マリーナを開かれたものにする具体策であるからです。

  このコンセプトから「法人無記名」「艇の利用料を無料とする」の2大特色が打ち出されました。法人向け「マリナーズ」クラブの成功は、この2大特色がアピールしたものと考えています。

  当初、三つのタイプのクラブを考えました。
   A、特別法人向け
     ・イニシャル千万円
     ・2〜3億円のボートを用意し、三河御津マリーナのフラッグシップとする。
   B、一般法人向け
     ・イニシャル1200万円
     ・4〜7千万円のフリートとする。法人無記名とし、会員会社従業員の利用を主目的とする。
   C、個人向け
     ・イニシャル400万円。
     ・個人の共同オーナー感覚のクラブとする。
  このうちAはターゲットを絞りきれなかったため、実際の募集開始には至りませんでした。
  Bについては現状約50口の会員を擁し、昨年は2200人のご利用がありました。今年は3000人を目指しています。
  Cについては当初のコンセプトと地域の実情にややギャップがあり、改善策を検討中です。

  多くの人に海を楽しんでもらうという目的を果たし、マリーナに賑わいと活気をもたらし、マリーナの収益にも貢献し、いろんな意味で出光マリンクラブは現在までのところ非常に成功していると考えています。初めてのシーズンを終えて今後どのように進むべきか、システムの評価、反省点等いろいろとありますが、将来マリンクラブ運営のノウハウを売り物にしてゆく予定なので、ここでは詳細は省略します。

 

10−3、募集活動
  世の中をあげてひたすら経費節減に努めている不況の時期に、プレジャーのための新たなシステムに入会して頂く活動は困難を極めました。販売の方法もノウハウになると思いますので、詳細は省略します。

  一つだけ申し上げておくとすれば、それは販売のための専門の会社とかセールスマンを使うことはせず、出光興産の絶大な援助を得ながら、すべて出光マリンズの社員で販売したことです。

 

10−4、クラブ艇について
10−4−1、クラプ艇保有の方法
   ノウハウに属するので詳細は省略します。

10−4−2、クラブ艇の選定
  93年10月の開業と同時にマリンクラブも営業開始しようと決めていました。

  このためには、8月には艇を揃えたい。どんなに遅くとも2月末には発注しなければなりません。どんなボート、ヨットを買うか、この当時のスタッフ(森下、柴田、杉山、渡部、戸塚)で、どれだけ議論を戦わせたことか。もともと船が好きで集まった連中ですから、船を 買うとなったら意見は尽きないのです。
  今でも忘れられないのですが、皆で相模湾のマリーナ巡りをしたあと江ノ島ヨットハーバーに上がり、会議室を借りてクラプ艇選定の話し合いを始めました。(当時、スタッフは東京、御津、名古屋と分散していたので、集まって議論する機会は貴重だったのです。)ところがとても結論に至りません。時間がきて会議室を出され、駅へ向かう途中のレストランで議論を再開しました。それでも終わりません。あの江ノ島の橋の上でも話は続き、遂には江ノ電の中まで続きました。懐かしい思い出です 。

  結局、選んだのは次の5艇です。
  [デネプ](ヨット) コンテスト46 オランダーコ二−プレックス社製
  クルージング性能を重視した、いかにも欧州の艇らしい洗練され重厚さをもった艇です。森下が惚れ込んでマイボートとしてコンテスト35を購入(『ウインデイ・ホリデイ
II』)し、性能を確認していたことも決定理由になりました。遠目にも判るその優美な姿は、すでに三河湾の風物として定着しています。
  「アンターレス」(ボート)バーチウッド39 イギリス・バーチウッド社製
  イギリスらしい豪華さと質実さを併せ持ったサロンクルーザーです。日産エンジンを搭載していることから、出光と日産との石油取引も考慮して選定しました。出光マリンクラプのお客様は、この船で本物のクルーザーがいかなるものかを実感して下さっているでしょう。
  「アークツルス」(ボート) ヤマハーMX40 日本・ヤマハ製
  スポーツフィッシャー。 1970年代から80年代にかけて、ヤマハの船は重厚で高価なイメージがありました。しかし90年代に入って思い切って軽く安くに方向転換しています。これもその流れの船です。わが社唯一のトローリング艇として、神島から外へ出る遊びに大活躍しています。
  「ペガ」(ヨット) チタ46 日本・チタ社製
  ヴァン・デ・シュタット設計のチタ社のワン・オフ艇です。かって「龍仁」として東海海域に覇を唱えていた名艇ですが、しばらく乗る人もなく志摩YHに 舫われていたのを徹底的にレストアしてチャーターしました。その潮っ気はお客様を魅了しています。またフリートのコストダウンにも貢献しています。
  「スピカ」(ボート) シーレイ290スポーツ・フライブリッジ 米国・シーレイ社
  フライブリッジとウオークアラウンドの使い良さが魅力です。お客様には米国艇の明るさ、軽快さの魅力を味わって頂いています。


 

10−4−3、クラブ艇の命名
  マリーナとして、あるいはマリンクラプとして、これから船が増えてゆくのにその都度名前を考えるのでは大変だと思いました。またその時々の思いつきではてんでんばらばらな名前になってしまいます。何かのシリーズにすべきでしょう。

  社員から「島」「岬」「海峡」「魚」「大型客船」『宝石』「花」「量」「星座」などの案が出ました。しかし 、「漢字では固すぎて軍艦の名前のようだ」とか、「魚や宝石は具体的なイメージが強すぎる」等の難があり、マリンクラブ艇の命名は「イメージの膨らむ星の名とする」ことにしました。
  星の名も、「日本で見える星座の主星とする」「夏の空に見える星座から選んでゆく」「出来たら1等星とする」ことにしました。星についてはパソコン通信のスペースSIGで教えて貰いました。

  こうして 既に15くらいの命名リストが出来ているので、当分は命名で苦労することはありません。

10−5、マリンクラプ艇の運航
10−5−1、運航管理規定
  大事なノウハウなので公開しません。

10−5−2、船長とクルー
  現在社員の中から8名が船長適格者として指名されています。
  クルーは社員のほぽ全員がクルー候補者で若いクルーの活 きの良いアテンドが、マリンクラブのお客様に好評です。

  船長・クルーの資格要件、教育、ローテーションの詳細はノウハウなので公開しません。 

10−5−3、プレイスケジュール
  マリンクラプ運営の骨格をなすものは、まずお客さまとのプレイスケジュールの打合せです。

  その詳細は ノウハウなので公開しません。 

10−5−4、プレイスポット
  運営を始めてみて、あらためて三河湾のプレイスポットの豊富なことに驚かされています。

  ちょっと遠出して
    ・的矢湾
     カキは旨いし、海は素晴らしいし、スペイン村に歩いて行ける
    ・英虞湾、五箇所湾、熊野灘
     日本で最高のクルージングエリアです
    ・神島、大王崎
     トローリングでカジキ
    ・鳥羽
     日帰りコース
    ・津、四日市、松坂
     津YH、河芸マリーナ、お伊勢参り、和田金の肉も・・・
    ・出光愛知製油所
     製造元で給油しましょうか
    ・伊良湖岬、浜名湖
     もう身内

  食べることなら
    ・篠島、日間賀島
     その新鮮さ、品数、ボリューム、値段に驚かない人はいません
    ・鳥羽
     Viviもいいし、小涌園の桟橋もいいし、戸田屋に横付けも
    ・三河御津マリーナのプルーモメント
     日本の名所

  浜遊び
    ・三河大島 ・姫島 ・宇津江海岸 ・江比間海岸 ・伊良湖  ‥・

  釣り遊び
    ・書ききれない

 

10−6、収支採算
  入会金の扱い、船の寿命、設備の負担、船長・クルーの兼務の評価等、計算は難しいですが、収益をあげていることは確かです。
  内容はノウハウなので公開しません。

  出光マリンクラプ資料 をお買い上げ下されば、詳細データを提供致します。

註:その後経済情勢の変動でマリンクラブの運営は激変したようであるが、現状を承知していない。

 

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11.社員採用、教育

 

11−1、学校まわり
   93年10月の開業予定には、これから冬のシーズンを迎える時期にオープンするのか?との疑問を呈されることもありました。
  これは許可の取得から工事の着工、工事の完成とまったく緩みのないスケジュールで押していった結果こうなったのですが、4月入社の社員の教育を考えると丁度良い段取りとなりました。

   とにかく93年の4月には社員を入社させなければなりません。そのためには92年の春から夏が採用活動の期間となります。90年、91年には人手不足の倒産が話題になる世相でしたから、本体の出光興産ですら採用に苦労している時に、設立したばかりのサービス会社が果して若い新卒者を採用出来るものかどうか、大きな不安がありました。果して新会社はスタート出来るのか。
  採用活動に入るには、給与規定、就業規則、会社案内が必要です。一から作り始めました。そんな環境整備もあり、忙しいことでした。

  採用人員については、スタート時の社員数を20名程度と考えていました。
  出光興産からの出向者は森下、浜谷、杉山の3名です。あと全員を新卒者というわけにはいきません。ハーバーマスターをはじめ、経験者も必要です。実務経験だけではなく、組織の年齢構成からいっても経験者が必要でした。新卒者は12〜13名と考えました。
  男女別については、男女の別は一切考えないことにしました。待遇、職種その他の差はまったく付けないつもりでしたが、ただ地元の女子短大への求人票に「事務職」と職種を記入したのがやや心外でした。

  採用対象として、まず普通高校生は外しました。伝統もない、先輩もいない会社で、普通高校を出たばかりの若い人を育てる自信がなかったからです。18才と20才は大変な大きな違いだと思いました。

  専門学校、高専、大学の中から海に関係のある学校に目星をつけ、森下と浜谷で学校訪問を行うことにしました。森下がまわったのは東京商船大学、東京水産大学、東海大学海洋学部、神戸商船大学、鳥羽商船、尾道学院・・・などです。
  求人票を持って就職担当の先生を訪ねるのですが、とにかくそれまでリクルートなどまったく縁がありませんでしたから、効果があるのやらないのやらまったく要領を掴めぬまま、一人で夏の炎天下をとぼとぼと歩き回りました。

  それでも、尾道の日本海洋技術専門学校では何人かの学生が集まって話を聞いてくれました。このうちの1人でも来てくれるのだろうかと不安に思ったりしましたが、この年尾道からは4人(我孫子、伊藤、佐藤、横山)が来てくれて、現在出光マリンズの中核になっています。この学校は設備も充実しているし、全寮制で、いい学校です。
  大学生なんかはとても無理だろうと思っていましたが、東海大学から野田が来てくれましたし、翌年には東京商船大から山本が来ました。これもあの夏の行脚のご成果でしょうか。

93年4月の陣容
   ・出光からの出向者  3名  森下、浜谷、杉山
   ・マリン経験者    4名  本船経験2、漁船経験1、マリーナバイト1
   ・新卒者      10名  大学2、高専1、マリン専門学校5、短大2
     計       17名

 

11−2、ハーバーマスター探し
  ハーバーマスターはマリーナの要です。安全管理者として官庁等との窓口となります。出入港を司ります。社長より所長より偉いオーナーのお客様に対して、指示、命令が出来ます。ハーバーおよびヤードを管轄します。現場の従業員の要です。
  権威があって、人当たりが好くて、そして統率力のある人間でなければなりません。
  ハーバーマスターに人を得るかどうかがマリーナの成績に響きます。

  どうやって探そうか、悩みました。
  我が系列会社にほとんど世界一の船腹をかかえている出光タンカー鰍ェあります。合理化と外国員船員の乗務で一時期過剰船員に悩み、マリーナプロジェクトに人をまわしてくれる約東になっていたのでずが、90〜91年になって一転して船員不足となり、人を出してくれる約束は反故になってしまいました。あまつさえ頼りにしていた中田君すら引き揚げられてしまう始末です。

  淡輪YHのハーバーマスター鹿島郁夫さんのようなマリンの世界での著名人、あるいは話題作りをかねて外国人のハーバーマスターなども考えなかったわけではないのですが(実際売り込みがありました)、やはり組織の要となるポストですから気心の知れた人間でないと困ります。
  結局出光タンカーに頼ることになり、ようやく紹介してもらったのが柴田君です。彼は当時43才、神戸商船大卒で30万トンタンカーの一等航海士でした。船長昇格直前に出光タンカーを退社して郷里の熊本に帰っていたのですが、彼の弁によればその理由は次の通りです。
  「昔は船長ともなれば専用のボーイがついたり、憧れのステータスがあった。仕事も部下に任せて安心だった。ところが合理化が進んで人が減らされ、何でも自分でやらなければならなくなった。加えて外国人船員の混乗が始まったが、彼等には何も任せられない。すべてを自分がチェックしなければならない。全部自分でやる方がましなくらいだ。船の食事も彼等流の食事で、日木食を食べることも出来ない。これでは夢がない。」
  こうして郷里に帰って自営していたのですが、出光タンカーから彼を誘ってみたらどうかと言ってきました。早速熊本に飛びました。

  中肉中背というよりちょっと背は高く、がっしりした、色の黒い、髪はやや薄く、いかにも篤実そうな、それでいてマドロスに憧れたことのあるダンデイさを持った、いい男でした。
  経歴や人物については出光タンカーから聞いていましたから間違いないと見極めをつけ、新会社の説明や待遇などを話して口説きにかかりました。
  彼の一番の問題点は遊びへの適性でした。真面目で、頑張り屋で、学生時代は陸上競技一本やり、会社で陸上勤務時は残業を厭わず一心不乱、今に至るもさしたる趣味なし。
  こういう真面目さはかえってマイナス点なのですが、ともあれ来てもらい、出光マリンズの基礎作りから参画してもらっています。派手なところはないが、着実で、信頼のおける人物です。船遊び、釣り、料理、その他の賑やかしを本当に好きになって、いいハーバーマスターになってもらいたいものです。

  この熊本訪問の時に空港で「日本オートポリス」の看板を見かけ、彼と一緒に行ってみました。阿蘇の外輪山を小1時間ほど走って見たあの施設は今どうなっているのでしょうか。日本で2ヵ所目のFIレース場とか、73億円のピカソの「ピエレットの婚礼」とか、みんな夢の跡です。
  またこの時、ヤマハの八代工場
に行きましたがいまはどうなっているか。

  この他、渡部(本船経験者、ヤマハマリーナ浜名湖で教育担当をしていた)、小林(漁船経験者、地元漁業組合長の息子)など、頼もしい経験者が集まってきました。
 

註:柴田HMはその後苫小牧、広島観音マリーナ(日本最大)などの建設から運営を手がけ、ハーバーマスターの第一人者になっています。

 

11−3、マリーナ巡り
  だんだんとスタッフも揃ってきましたが、海についてまったく経験がないか、海事経験はあってもプレジャーボートの経験はない者が大半です。マリーナがいかなるものか、まずマリーナを見て歩こうと考えました。
  92年I1月から93年2月にかけて、ヤマハのチャーターボートで下記の海域・港・マリーナ巡りを行いました。
  森下はこの時巡回したマリーナのほとんど全てに、自艇を自ら操船して入港したことがありました。

東京湾                  
  東京湾マリーナ 夢の島マリーナ 横浜港 岡本造船他 マリンポートこうちや 三崎港                
  ヤマハマリンクラブ基地 富津岬 浦安マリーナ                   

相模湾
  シーボニア 油壷 佐島マリーナ 葉山マリーナ 小坪 逗子マリーナ 江ノ島YH

三河湾、伊勢湾
  日産マリーナ東海 名鉄西浦マリーナ 佐久島 日間賀島 伊良湖港 衣浦泊地 津YH
  鳥羽港 鳥羽マリーナ 大王マリーナ 合歓のさと

大阪湾                                    
  大阪ポートマりーナ 大阪北港マりーナ 旧西宮YH 新西宮YH 須磨YHサントピアマリーナ
  堺泉北港 堺出島 旧堺港 関西空港(埋立中)淡輸YH
  加太漁港 和歌山マリーナシテイ(埋立中) 和歌浦フィッシャリーナ

  あと伊豆半島を一周したかったのですが、果たせませんでした。森下は伊豆の全漁港に入港したことがあります。

 

11−4、集合教育
  93年4月になり、若々しい新卒者が入社してきました。まだ現場は工事中ですから、仮設の事務所でした

  教育についてはマリナス開発さんから引受けてもよいとのお話もありましたが、自前で行うことにしました。その代わり講師の派遣でヤマハさん、マリナスさんをはじめ、多くの会社に大変お世話になりました。

  まだ業務が始まっていないこともあり、この時の教育は4月1日から5月14日まで、みっちり時間をかけて実施することが出来ました。
  カリキュラムは、今後売り物にしようと思っていますので、ここでは省略します。

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12.開業

12−1、開業
  93年10月1日。
  予定通り、出光マリンズ三河御津マリーナの開業にこぎつけました。
  朝、全社員、構内で営業する業者、建設業者がイベント広場に集まり、マリーナ旗をセンターポールに掲揚しました。

  工事着工から17ヵ月。              
  港湾計画変更決定から27ヵ月。
  出光社内の土地取得折衝開始承認から38ヵ月。
  森下がマリーナプロジェクトに配属されてから55ヵ月でした。

 

 

  

 

12一2、竣工式
  93年10月13日、出光昭介社長を迎えて竣工式が執り行われました。


中央は御津町長   その右 長木愛知県漁連会長

右から 鈴木克昌蒲郡市長(現衆院議員 一新会会長)、出光昭介会長、長木一愛知県漁連会長、森下

出光マリンズ社員によるデモンストレーション

アメリカズカップ・チャレンジのメンバー訪問
   

  多勢のお客様が来て下さり、蒲郡基地からアメリカズ・カップ挑戦艇クルーの表敬入港があり、出光マリンズ社員によるマリンプレイのデモンストレーションがあって、賑やかでおめでたい一日でした。

  10月16日には「三河御津マリーナ開港記念ヨットレース」が挙行され、1 0 0隻の参加艇が快晴・快風の三河湾にスピネーカーの花を咲かせました。

 

オーナー各位

 

開業のご挨拶 

 

日本一のマリーナが開業Lました。

日本一というからには、何が日本一か、はっきりとさせなけれぱなりません。
まず第1は日本一のホスピタリティです。
1年365日、1日24時間、三河御津マリーナはいつでも開かれています。マリーナは港です。港にはいつ何時、どんな状態で
船が辿り着くか判りません。港に戸はたてられないのです。だから三河御津マリーナは年中無休です、夜間は夜警で対応します。
次は港の中心に突き出したセンターピーです。ビジター艇を迎えるために、これだけのビジターバースを備えたマリーナは、
日本中ほかにありません。
そしてスタッフの桟橋への出迎えと舫とり。マリーナでも、漁港でも、どこでも、温かく迎えられた経験のないわか国のボート&ヨットオーナーには、これが最高の感激だと言われます。
これらを総合して、日本一のホスピタリティの評価を頂きつつあります。
註:それまで舫をとってくれるマリーナは皆無であった。

第2は海と陸との繋がりの工夫です。
8本の桟橋を横に繋いだ270メー
のヘッダーウオークウエイ。これがいかにハーバーサイトの動きを良くし、マリーナの雰囲気を高めているか。
を海に近づけるために、護岸高さから1メートル下げて海中に木杭を打って設置した親水デッキ。それに続く板張りのイベント広場。そして建物の2階に至る回廊。段差はベンチになっています。これらの木部はすべてボンゴシという比重が1より重い堅木で作りました。
そして思いきって海辺によせた建物群。
これら動線の繋がりに加え、センターピア上に設けた海上のステージ「ピアステージ」とイベント広場との間に交わされる音と光とイメージの交錯。
この繋ぎの工夫が日本一の誇りです、

第3がクラプハウス、レストラン、ロッジ、修理工場、給油所等の建物群です。
そのデザイン、各施設の機能、使い勝手、そして吟味された家具・調度。
まさに日本一です。

将来、第2、第3の点については或いはうちを凌駕する施設が出来るかもしれません。
しかし第1に挙げた「日本一のホスピタリティ
jだけは絶対に保持し続けてゆく決意です。

どうか末永くお引き立て賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

1993・10

出光マリンズ 三河御津マリーナ

所長 森下一義

 

 



センターピア上でオーナーさんの進水式


開業直後のマリーナ全景

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以上

 

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マリーナプロジェクト配属当時の筆者