Yさんのこと              Cap.黒潮丸

 これは我々のヨットの友人、故矢吹孝一さんとの交流の思い出をPC-VAN に書いたものです。

 一緒に遊んだ仲間の皆様にコピーをお送りして、彼の生前を偲び、共にご冥福を祈りたいと思います。



 

#8586/8622 アンカレッジ(船溜まり)

★タイトル (CAPTAIN ) 97/ 3/21 21:31 ( 43)

Yさんのこと(1)              

★内容

 彼と初めて出会ったのは伊東の外堤防の上だった。

 どうしても伊東に船を繋ぎたくて、伊東漁港の外堤防に繋いである船を買って係留の場所を確保し、そして先代のウインデイ・ホリデイ号に入れ替えて、「舵」の告知板にクルー募集の広告を出したのだった。もう10年以上昔のことだ。

 

 僕が行くと男が一人、堤防の上に先に来ていた。お互いに自己紹介した。東京のタクシー運転手だという。船の一級免許を持っていた。そして1200CCのバイク、ブラジルのアマゾネスに乗ってきていた。

 42、3才。長身、やせ型、やや猫背、色が黒かった。目つきに、ちょっと人を下から見上げる感じがあった。声はドスがきいてこわかったが、如才なく、はったりもなく、笑うとかわいい顔になった。むしろシャイな、純情な人間だった。

 稼ぎは、毎月営業所で3番を下ることはないと云っていた。たしかにそんな勘のいい人間だった。だからというか、夏には毎年40日も休みをとって北海道にツーリングに出かけていた。アマゾネスにシュラーフを積んで、礼文とか稚内、釧路、根室などを回ってくるのだ。丸の内界隈では聞けない豪快な夏休みの話だった。

 知り合って幾夏目だったか、彼は大学生の息子と一緒に北海道に出かけたが、「とってもヤワで一緒に走れないんで、函館で別れた。」と言っていた。東京から東北を抜けて北海道まで、何キロ走ったのか。鍛え方の違いかもしれないし、アマゾネスとホンダの違いかもしれない。

 

 彼ほど真剣にヨットの操作を覚えようとしたクルーはいない。とにかく僕のやることを実に注意深く観察していた。2度と同じことを聞かなかった。以前にも書いたが、僕が間違ってやったことを同じように間違えてやるので赤面することがあった。

 すぐにW・Hのボースンになった。

 

 彼との付き合いで最初の affair はニール号事件だ。

 やはりウインデイ・ホリデイ仲間のFさんが昔プロのダイバーだった当時、東伊豆の妻良の港外で沈船を見つけていた。W・Hの宴会でその話が出て、皆で行ってみることになった。

 W・Hで出かけた。潜った。あった。Fさんの山たては正確だった。36メーターの海底にその船はあった。

 皆の気分に火がついた。引き揚げよう!

 

 すでにFさんが調べていくらかの予備知識はあった。その船は明治6年、パリ万博に出品した日本の品物を持ち帰ってきたフランス船ニール号といい、ちゃんと記録に残っている。石廊崎で台風にあい、妻良沖で沈んだのだ。

 Yさんの動きは目覚ましかった。国会図書館、国立公文書館、外交文書館などに行って当時の記録を探し出し、筆書きの、古文書ともいえる文書を何十ページもコピーをとってきた。我々の誰も読めないから、当時W・Hの隣に艇を繋いでいた高校の古文の先生に解読してもらったりした。

 東京から遠い妻良に通いつめ、漁業組合長とか青年会議所に渡りをつけ、沈船引き揚げの許可をとりつけようとした。

 東京で、伝手をたどってテレビ局にスポンサーを頼もうとしたり、とにかく彼の思いつく限りの活動を続けた。

 物凄い熱中ぶりだった。億万長者を夢見たのだろう。

 それにしてもタクシー運転手が公文書館や外交文書館に通うとは、日本も大した国だ。

                              続く

 

Yさんのこと(2)              

★内容

 とにかく彼の熱中は凄かった。何がなんでも引き揚げるのだと打ち込みました。

 W・Hの仲間も当然感染していましたが、僕と張本人のFさんは割りに冷静でした。引き揚げるとなったら漁業補償や何かで大事になるだろうし、環境保存や船体保存も大変だし、まずは数十億円のプロジェクトだろう。そうなったら県知事でも頭に担いだ組織になってしまって、とても我々の出番はない。うまくいって記念碑の末席に名前が出るだけだろう。そしてそこまで持っていくだけのために大変な借金をすることになるだろう。

 引き揚げたものがどれほどの金になるか判らないが、地元でも沈船は公知の事実だったのだろうし、とても我々が発見者として独り占めすることなどあり得ない。

 

 結局彼が走り回った地元の漁組も青年団も動かず、ニール号はまたひっそりと海底の砂に埋もれていきました。

 彼のこの時の悲傷落胆は大変なものでした。それまでの彼の生活は知りませんが、この挫折が彼の生き方に大きな影響を与えたことは確実です。それほど彼はニール号に入れ込んでいました。

 

 次に彼から聞かされたのは押しかけ女房の一件です。

 彼は離婚したやもめの一人暮らしでした。彼に言わせると、奥さんが夜の勤めに出て、浮気をしたので離婚したのだそうです。女の子は奥さんが、男の子は彼が育てて、当時息子を地方の大学にやっていました。

 その彼のアパートに押しかけ女房が通ってくるようになりました。最初のいきさつは聞いていませんが(W・Hのほかの仲間は聞いているかもしれない)、とにかく女性が通ってくるようになりました。なんでもラブホテルに勤めている人とかで、朝方になると彼の布団に潜りこんでくるのだそうです。そのあたりのあれこれ、彼女のラブホテルでの出来事の報告、まあいろいろと聞かされたものです。しかも彼女には夫がいて、その夫が糖尿病でと、話の種は尽きません。

 その夫が死んで、彼女と結婚するのかと思ったらしなくて・・。

                                 続く

 

Yさんのこと(番外)             

★内容

 今朝(97/3/23)の朝日新聞の「ひと」欄に、杉末広さんの話が出ていた。

「海南市で居酒屋「杉やん」を営む杉末広さんは18年間一日たりとも休んだことがない。その店を妻倭巳さんに任せ、昨年末、船をチャーターして第五福竜丸のエンジン引き揚げに成功した。

 5年前、第五福竜丸のエンジンが三重県御浜町沖の熊野灘に沈んでいることを知った。三重県古座町で建造された第五福竜丸はビキニ環礁の水爆実験で被爆したのち、エンジンが切り離されて貨物船に乗せられたが、その貨物船が古座町に近い熊野灘で座礁、沈没した。

 杉さんはこの偶然に因縁めいたものを感じた。「県人としてエンジンを引き揚げないといけない」。第五福竜丸の関係書物を買い集め、図書館で資料をあさった。

 海底で28年間眠っていたエンジンには、びっしりと貝殻がついていた。東京・夢の島の都立第五福竜丸展示館に眠る船体のもとに運び、平和と反核のシンボルにしようと、和歌山県の市民団体と運動している。

 エンジンの引き揚げに使った費用8百万円はすべて杉さんの借金である。」

 

 ニール号は100年以上前に沈んだ、長さ97メートルの木造蒸気外輪船です。W・Hの仲間が潜った時、舷側だけを地表に出して船体はすべて海底の砂の中に埋っていました。

 これを船体を壊さずにそのままに引き揚げようとしたら大工事です。当然環境問題も起きます。数十億円のプロジェクトだと言った所以です。

 それにしてもYさんの情熱は杉さんに勝るとも劣らなかったと思います。

 

Yさんのこと(3)              

★内容

 次の affair はオーストラリアの知り合い探しでした。

 当時僕は日比谷帝劇7階のオフィスにいましたが、ある日いきなり彼から電話がかかってきました。月に1〜2回のクルージング予定を5〜6名の仲間全員に送り、参加可能者だけが集まる方式でW・Hを運営していたので、日中彼から電話をもらうのは異例なことでした。

 「森下さん、オーストラリアに知り合いはいない?出光の事務所があるんじゃない?」

 

 彼は突如ヘリコプターの操縦士になろうと思いたったのです。まだバブル華やかなりし頃で、ヘリの操縦士の不足が言われていました。そして研究したところアメリカかオーストラリアで免許取得する方が安上がりと聞いたようでした。

 「出光の事務所はあるし、紹介もするけど、英語はどうなの?まず電話で入学案内を請求するくらいの英語が出来ないと、受講にならないんじゃないの?」

 彼はまじめに英会話スクールに通いはじめました。これはすぐに挫折しました。しかしもう彼は外国に夢中になってしまいました。それまでまったく縁のなかった外国というものに初めて目を開かれ、すっかり燃え上がり、舞い上がってしまったのです。免疫の全くない未開の土地に伝染病菌が入ったようなものです。手のつけられない熱中でした。そしてとうとう外国で暮らすことを考えはじめました。

 「オーストラリアで暮らすにはワーキングビザが要る。タクシー運転手では駄目なので何か仕事が出来なければいけない。コックになろう。」

 ニール号の沈没状況を調べたあの情熱で外国暮らしを研究しはじめました。半端ではありません。彼の場合、まず自分でいかに稼ぐかから始まります。他人に頼る発想はないのです。そこが我々会社人間とは違います。それにしても、僕は彼のこの時の心理にはニール号での挫折が大きく影響しているように思われてなりません。失望のあまりの大きさに、日本を捨てようとまで思い詰めたのではないでしょうか。

 アパートの近くのいつも食事に行っている店に頼んで、仕事の合間に見習いでコック修行をはじめました。調理士試験の勉強をはじめました。「もう揚げものは出来る。まだ刺身はやらしてもらえない。」

 そのうちに「普通の和食では駄目だ。寿司職人だ。」と言いはじめましたが、これはちょっと店の隅で手伝わせてもらうわけにはいかないようでした。「寿司職人になる学校があるんだけど、半年で200万円かかるんだ。」

 

 そのうちに遂に辛抱たまらなくなり、「とにかくちょっと行ってくるよ。」ということになりました。旅行ではありません。半年か1年、暮らしてくる決心をしたのです。

 さすがに一人では心細く、タクシーの運転手仲間で、W・Hにも時々連れて来ていたM君を誘い、一緒に行くことになりました。仕事をやめ、退職金をもらい、貯金をはたいて500万円ほど用意したようです。アパートだけは解約しないでおいたようでした。例の通い妻が管理してくれます。

 こうして二人のヤジキタは出発しました。

 

Yさんのこと(4)              

★内容

 こうして向こうでしばらく滞在するつもりで出かけた二人でした。

 最初ヘリコプターの免許をとることから始まった彼の外国研究でしたが、それが一挙に盛り上がって外国居住願望になり、そのための英会話学校通い、コック修行、寿司職人志望となり、ついに一時滞在までエスカレートして退職しての出発となりました。

 でも初心は忘れておらず、オーストラリアについてすぐヘリコプターの学校には行ったようです。しかしどうやら話にならなかったらしい。次にどこかでニュージーランドのヘリ学校がいいと聞き、ニュージーランドに行きました。

 一時居住目的で行ったのですから所謂ツアー旅行はしていません。まったく無手勝流の外国旅行です。いささかとうのたった猿岩石でしょうか。いやお金は持っていたのだからちょっと違うか。この間の彼等の出で立ちは下駄ばきに手拭の鉢巻きです。言葉がほとんど判らない彼等の精一杯の意気がりというか、虚勢でしょう。それはそれで通用して、だんだんと要領が判かっていったようです。

 

 ニュージーランドのヘリ学校には日本人の教官がいました。日本人の生徒を見込んで採用されていたようです。案に相違してさっぱり日本人生徒は集まらず、ヤジさんキタさんはすっかり歓迎されたようです。親身にいろいろと話を聞かされ、そして体験入学などして、却ってヘリの操縦もそう簡単にマスター出来るものではないことを悟らされたようです。

 どうやらその辺でヘリ操縦士への夢は冷めたようでした。500万円でとれる資格ではプロの操縦士にはなれず、1000万円かかることも分かりました。その用意はありませんでした。

 そこで日本人が開いていたラーメン屋も閑古鳥で、コックの夢もしぼみま

した。

 高揚した気分が沈んで(多分)、あとは観光旅行でオーストラリアを回り、半年の予定を2ヵ月あまりで日本に帰ってきました。ニール号とは違いますが、これも彼にとって大きな傷心であったことは確かです。純粋な彼の心は傷つきやすいのです。

 パースで出光の駐在員にすっかりご馳走になったと感激していました。社用族ではない二人にとって、ご馳走される経験はあまりないのでしょう。

 帰途立ちよったクアラルンプルでの遊びは、M君の短い青春(後述)にとっての華でした。

 

 帰国した時のYさんの第一声は、「あんな人間の少ないところは稼ぐところではない。稼ぐのは日本だ。」でした。

 けだし至言です。

 

                            続く

Yさんのこと5                

★内容

 次に聞いたYさんの消息は入院事件です。

 彼がブラジル産のアマゾネスという1200CCのバイクに乗っていることは前に書きました。そのバイクに乗ろうとして、クランクのキックバックで腓骨を折ってしまったのです。そして3カ月以上入院する仕儀にになりました。

 その病院での人間模様を彼独特の語りで話してくれるのですが、まあなんとその面白かったこと!絶対にあれは書き留めておくべきだったのだけど、もうなんだか詳しいことは忘れてしまいました。今更聞こうにも、もう彼はいない!

 

 とにかく彼はその入院で保険金を数百万円入手しました。もちろん働かない運転手に収入は一銭もないわけだけど、養う家族もいない彼です。入院生活を存分に楽しんでいました。オーストラリア旅行の費用が戻ったと喜んでいました。太い金の鎖を買って首に下げました。

 

 それからしばらくして彼は会社を替わりました。それまで大手のGキャブにいたのですが、やや都落ちして中小の会社です。ヤジキタ仲間のM君も引き連れての移籍です。

 そこは完全歩合で、固定給はないかわりに売り上げの50%以上が自分の実入りになるのだそうです。彼みたいな腕自慢にはその方がやり甲斐があったのかもしれません。

 彼の収入は毎月50万円を超えたり超えなかったりだったようです。

 

Yさんのこと6                

★内容

 次に彼が「面白いことがあるんだ」と言ったのは、鶏でした。

 なんでもウコクケイという鶏があるんだそうです。その卵が効能あらたかで高く売れるとか。たちまち彼はそれに夢中になって、なんとアパートで飼いはじめました。

 板橋のモルタルアパートですから土地があるわけがない。それを無理して縁側と垣の間にケージを作って、たしか9羽飼っていると言いました。一体どんな有り様だったのやら。

 タクシードライバーですから24時間勤務です。餌はどうするのか聞いたら、仕事中に給餌に戻るんだと言っていました。しばらくはその話ばかり聞かされました。

 

 そしてなんとそのうちに、牧場をやると言い出しました。故郷の福島に戻ってウコクケイの牧場をやるのだそうです。いよいよ本気か、故郷に居を定めて落ちつくのか、どんな土地だろうと思ったら、なんと山の中に100坪ほどの土地を借りて始める計画だとか。福島の山を100坪だけ貸してくれる人がいるのでしょうか。

 ウコクケイがその後どうなったのか知りません。

 

Yさんのこと7                

★内容

 Yさんと一緒にオーストラリアに行ったM君のことです。

 Gキャブの同じ営業所でたまたま知り合ったようですが、同郷の福島出身の後輩ということで随分可愛がっていました。年の頃なら33〜4だからYさんより一回り以上後輩です。

 オーストラリア、ニュージーランドにヤジキタで行ったし、当時東京湾マリーナに置いていたW・Hにもよく一緒に来ました。

 M君のことで僕が覚えているのは、アパートに一人暮らしで、月6千円でプールのあるフィットネスクラブに入っていて、銭湯に行くよりずっと安いと言ったことくらいです。大人しい、控えめな、目立たない青年でした。Yさんとは正反対です。そんなところがうまが合ったのかもしれません。

 Gキャブから都落ちして埼玉の方のタクシー会社に移った時も、行動を共にしていました。

 そのM君が実は白血病の持病を持っていたのです。Yさんはそれを知って、不憫に思っていたようです。福島で牧場をやる話もM君の病状を考えてのことだったような気もします。

 僕もそれから豊橋に移ったので詳しくは知らないのですが、M君がついに亡くなりました。Yさんが随分親身に面倒をみたようです。お骨にして実家までYさんが届けました。

 M君の華は、オーストラリア旅行の帰りにクアラルンプルに寄って遊ん時だけだったような気がします。本当に羽をのばして、心おきなく遊んだようですから。彼の生涯にそんな時が他にあったとは考えられません。

 ああ、今はもう二人ともこの世にいない。

 

 その頃からYさんがフィリッピンの話をするようになりました。

 

Yさんのこと8(完)             

★内容

 Yさんは時々思い出したように電話をくれる人でした。僕が年賀状や引っ越し挨拶状を出すと、決して返信はないけど、必ず電話があって、そこで近況やら何やらの話をして、そして「また乗ろうや」と別れる、そんな関係が続いていました。ガラガラ声の大きな声で、「森下さん、ヤブキです。」と電話がくるのでした。

 

 M君が死んだあたりから、話にフィリッピンが出るようになりました。いいぞ、いいぞと言うのです。一緒によく船に乗っていた頃には出なかった話題ですから、彼のこの面は初めて海外を知り、オーストラリアに行って帰りにクアラルンプールで遊んで覚えたことに違いありません。

 そのうちに連れていってくれよと話を合わせていたのですが、最後の電話には驚かされました。

 「結婚する」というのです。

 「誰と?」「いやフィリッピンでね、来週行くんですよ」

 どうやら彼女は日本に居るのではなく、フィリピンに居る人らしいのです。それと結婚しても日本で一緒に住むのではないらしい。彼が日本から通う国際通い夫のようなことらしい。

 「もう子供も結婚してしまったし、気楽な身分だから。」

 彼には子供が二人いました。男子と女子、それぞれの結婚の時には嬉しそうに報告してくれたものです。

 「そう、それはおめでとう。いよいよ本当に一緒にフィリッピンに行かねばならなくなったね、5月頃声をかけてよ。」

 それがYさんとの最後の別れになりました。

 

 それから3週間もたたずに、会ったことのない彼の息子さんから電話がありました。「父が死にました。」

 向こうの地で、心臓発作かなにかで亡くなったそうです。結婚の前なのか後なのか、籍を入れたのかどうなのか、詳しいことは知りません。

 

 しばらくして東京で告別式がありましたが、ヨット仲間一同で生花を贈らせてもらっただけで、参列はしませんでした。彼の人柄だから、きっとタクシーの運転手仲間や友達が大勢集まって、賑やかな告別式だっただろうと想像しています。

 

 人生、いろんな出会いがあるけど、Yさんとの交流も僕にとって他にかけがえのない大事なものになりました。彼のおかげで、僕の人生にどれほどの彩りを与えてくれたことか。

 それにしても、あの最初の出会いの時、伊東の外堤防で瓢然と立って待っていた彼の姿を忘れることが出来ません。

 

97/6/15 完

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