石廊-大王-潮岬航海記

98/7/18〜25

森下一義

 

<メンバー紹介>

M氏(私):62才。リタイアード。デインギーに乗って40数年、自分のクルーザーを持って27年、転勤人生に伴いホームポートを変えては乗り続けてきたクルージング派です。現在はマリンサーベヤーの看板を掲げています。最近はガーデニングで大忙しです。

K氏:54才。親譲りの印刷会社社長。一時期は大酒を呑み、料理屋に1週間も流連けするという狂乱怒涛の時代がありましたが、70才までもヨットに乗りたいと一念発起、一切酒を絶って毎日ランニングを欠かさない模範生活です。酒乱時代の武勇伝はあまたありますが省略します。17年来のヨット友人。

S氏:49才。横浜で建築設計の個人事務所経営。95キロの巨体に満面の髭。このところハモニカに凝っていて、今回も持参して散々聞かされました。非常にハンデイな楽器でコミュニケーションの手段として重宝なものだと思いましたが、彼のレパートリーはもっぱら「庭の千草」「故郷」など戦前の女学校唱歌集で、心情は巨漢によくある星菫派かと推察されました。15年来のヨット友人。

I氏:54才。葛飾の個人営業の生地ブローカー。聞けばまことに面白いというか不可思議な商売で、情報と人脈だけで成り立っているようです。84才のご父君がまだ現役なる由。彼の趣味は築地で、とにかく旨い魚、その産地と値段に滅法詳しいのです。値段といっても料理屋値段、スーパー値段ではなく河岸値段です。1匹5千円のサバがあるのだそうです。そんなサバ、食べてみたいような、食べたくないような。今回初対面。

 

 読者の皆様、クルーがロートルばかりでどうも申し訳ありません。

 若い人も誘うのですが、来てくれません。まあ、年寄りに付き合うひまはないよということでしょう。

 昨今ヨットの世界に若い人の参入が少ないとの嘆き節が多いのですが、M氏愚考致しまするに、最大の問題は時間であろうと推察します。クルーザーに籍を置けば当然そのスケジュールに縛られます。週末の予定を自分で組むことが出来なくなります。乗艇すれば起床時間、出航時間、ワッチの時間、すべてに縛られます。今時の若い人にはこれだけ自分の時間を拘束されることに耐えられないのでしょう。

 

<艇の紹介>

「玄象(げんじょう)」:船令6年。伊豆の船大工石井氏の設計建造になる33フィートのワンオフ艇です。どちらかというとレーサー/クルーザーですがレースに出ることはありません。エンジンのアワーメーター2500時間!

 

 

第1、2日(98/7/18、19)下田---九木浦

 布施田水道を明るくなって通過するために11・40に出航しました。南南西の軽風。

<鳥羽パールレース艇との遭遇>

 ちょうど御前崎にかかったところで鳥羽パールレースのレース艇と遭遇しました。18時15分。下田から40マイル。予想より1時間早かった。1、2位艇は岸寄りを走っていましたが、位置を高くとったDREAMPICとは交差し激励の声を交わしました。

 あと次々に押し寄せる艇群。薄曇りの夕陽に照らされた黒いシルエットが、近づいて、鮮やかなスピンに変わって、そして去って行きます。

<天の川>

 2人づつの3時間ワッチ。23時に起こされてワッチに立つと見事な星空でした。そして圧倒的な天の川の流れ。なんだか生まれて初めて見るような感動でした。天の川を見ることのなんと貴重な体験となったことか。都会ではもう天の川は死語といっていいのでしょう。

<九木港>

 13・30。九木港、魚市場桟橋に着桟しました(休日ですから)。下田から約150マイル。26時間。平均時速5,8ノット弱。ワンポイントリーフに#3ジブ。一度もタックを変えることなく、エンジンを使ったのは布施田水道だけ。こんなに順調な航海はかってありませんでした。

 九木浦はかっての九鬼水軍の隠し砦を偲ばせる、いかにも奥まった入り江の良港です。しかし着いて大雨。飯屋はなく、銭湯もありません。親切なおばあさんが、これでも営業しているの?という旅館に食事を聞いてくれましたが、なんと満員なる由。3連休で釣り人が多いのでしょう。他の3人は大雨の中、スーパーの前の水道で水浴びさせてもらっていました。トイレは公民館の前にあります。炊飯し、持参のうなぎ丼にしました。

 

第3日(7/20)九木---勝浦

 真っ暗い大雨の中、5時半に出航しました。熊野市のあたりでは曇り、山も見えていました。しかし新宮市を過ぎたあたりで急に霧が深まり、ついに視界200メートルほどになりました。勝浦は素晴らしい港ですがいつも入り口に苦労します。駒崎沖の定置をかわし、霧の中やっと大平島の灯標をかすかに視認し、さらに大きくまわって山成島を避けて進みます。これらの小島はGPSのチャートには出ないのです。ついに鰹島の灯標を確認してほっとしました。M氏の勝浦入港はこれで6回目です。

<勝浦港>

 10・30、勝浦港着桟。M氏がいつも着ける某所に着けました。今回2泊したので他の場所にも浮気してみましたが、護岸の形状、通過船の曳き波の影響、水場などから某所がベストでした。場所は内緒です。トイレは中央の桟橋にきれいなのが出来ています。

<鳥羽山の昼食>

 いつも行く港の飯屋「鳥羽山」で昼食をとりました。まぐろ丼(1300円)が圧巻でした。ほかに磯もの、いかの焼き物、くじらなどを食しました。3500円。なおM氏の食事代表示にはいつもビール1本程度の代金が含まれます。

<熊野権現那智大社>

 那智大社にお詣りし、大瀧を拝んで航海の安全を祈願しました。神々しい瀧です。昔、京都から歴代の天皇が遥々ここまで参詣に通ったといいますから(歩いてですよ!)よほど霊験あらたかなのでしょう。西国一番札所です。

港からタクシー3200円です。帰途はバスで600円。

<忘帰洞>

 有名なホテル浦島の風呂「忘帰洞」に行きました。ご存じない方のために一筆しますと、勝浦港を抱く半島の外海に面した洞窟の温泉です。遠く太平洋、そして足下の岩場に砕ける波を望む絶景です。紀州の殿様が帰るのを忘れるとて「忘帰洞」と命名したそうです。半島を回って行く道はなく、港から渡し船で渡ってゆくのも風情を添えます。「忘帰洞」を抱えるホテル浦島は年々膨張し、20年前の4倍もの大きさになっています。風呂だけの料金も2000円と、20年前の4倍になっていました。ホテル内には風呂が6カ所もあり、頂上の「狼煙の湯」に行ったらそこから那智の大滝が見えました。S氏はここでもハモニカを吹いたのでした。

 

第4日(7/21)潮岬---串本---勝浦

 勝浦を6・00出航し、大島の外を通って潮岬を回り、串本港に入って、勝浦港に12・15帰着しました。串本港では大島と結ぶ高架橋を建設中でした。よくお金を費ってくれます。

 今航海はじめてのお日様を拝みました。こんなに穏やかな潮岬は初めてです。

<鳥羽山の昼食2>

 また鳥羽山で昼にしました。刺身盛り合わせ定食、むつの煮魚、あじの塩焼きなど、3000円。

<S氏、I氏の帰京>

  S氏、I氏はここで艇を離れ、帰京しました。夜行バス(9千円)があるのですが、2カ月前から満員ということで汽車(勝浦--名古屋--新幹線東京、6時間、2万円)で帰りました。遥々遠くへ来たものです。

<太地、鯨博物館> 

 M氏とK氏はバスで太地に行き、鯨博物館を見学しました。太地は勝浦のすぐ向かい側ですが、浅瀬だらけでとても恐くてヨットでは入って行けません。

 M氏は昔津本陽氏が「深重の海」という太地の鯨取りを題材にした小説で直木賞をとった時、いつもヨットで恐い思いをしながら越えるこの辺りの海を扱った小説に感激して、この本を10数冊購入して友人に送ったことがあります。

 後年、銀座で飲んでいたら奥の方に津本氏を主賓にした一座がありました。どうやら日本経済新聞に連載した「下天は夢か」の打ち上げ慰労会だったようです。M氏は思わずクラブのママを通じてサインをお願いしました。「深重の海」10数冊がきいたのか、津本氏はわざわざ出てきて「森下一義さんへ」と呈辞を入れた色紙を書いて下さいました。

<銭湯>

 「忘帰洞」もいいのですが2千円は高いので、当夜は見つけておいた町営公衆浴場に行きました。温泉です。290円です。グッドです。場所はホテル浦島の前の入り江を一番奥まで入った上です。

---続く

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