アラスカ・イーグル号航海記

 これは黒潮丸が97/8〜9、アラスカのケチカンからカナダのビクトリアまで、15日間<アラスカ・イーグル号>のアドベンチャークルーズに参加した時の記録です。

註:2010年10月に読みやすいように体裁を編集し直しました。原文はそのままです。

 

 参加の経緯  メンバー紹介  プリンス・ルパート  北太平洋 食事のこと 
 感心したこと 船内生活  最後の晩餐  乗船資格  カズの評価 


アラスカ・イーグル号航海ルート


アラスカ・イーグル号全景(65F)

 

【アラスカ〜カナダ・クルーズ参加の経緯】(97/8)      

 きっかけは Cruising World 誌でした。告知版みたいな頁に「ハワイ、アラスカ、カナダ沿岸のアドベンチャークルーズのクルー募集」が小さく出ていました。

 最近アメリカではチャータークルーズが大流行らしく、すごい広告ラッシュです。しかしクルードのチャーターはすっかり観光ずれしてしまっていますし、ベアボートは仲間を誘わねばならず、年寄りで時間が自由になった僕と遊んでくれる暇人はいません。そこへいくとこの募集はちょっと違うようです。どこかの個人が費用分担のクルーを求めているのかもしれない。詳細を知らせるようFAXしました。 

 送られてきた案内は思ったよりはもう少し組織化された内容でした。主催団体は篤志家から寄付されたヨットで運営されているセーリング・スクールです。50〜60フィートのヨットが3隻あって、例えば今夏の「アラスカ・イーグル」の運航予定は次の通りです。

  7/1〜16  ニューポート→ホノルル (トランスパックに参加)

  7/19〜8/6 ホノルル→ジュノー(アラスカ)

  8/9〜21  ジュノ→ケチカン

  8/23〜9/6 ケチカン→ビクトリア(カナダ)

  9/8〜20  ビクトリア→ニューポート

 それぞれのレグでクルーを募集するのですが、もうケチカン→ビクトリアとビクトリア→ニューポートに各1人の空きがあるだけでした。

 参加費用はレグによって異なりますが約1800$です。勿論航海だけの費用で、交通費等は別です。

 妻の許可をもらってケチカン→ビクトリアのレグに申込みましたが、今日になってやっとアクセプタンスのレターが来ました。嬉しい反面緊張します。アラスカからカナダ沿岸を下るクルーズには胸が躍ります。かねてからの憧れでした。 

 
(2010年のコーススケジュールは次の通りです。料金は各レグ$3000−6000です。
Easter Island - Chilean Channels - Cape Horn - Ushuaia - South Georgia - Buenos Aires - Punta Del Este - Rio de Janeiro - Antigua )

 

主催団体

 このクルーズを主催する団体は「Orange Coast College Sailing Center」といい、本部は Newport Beach, CA にあります。


タイトル・ロゴ

   Sail Training Adventures

Orange Coast College Sailing Center

1801 W. Coast Hwy

Newport Beach, CA 22663

(714)-645-1859

 パンフによれば設立1982年の非営利団体で、参加料金、ボランテイア、寄付金で運営されているそうです。現在、Alaska Eagle 65ユ , Volcano 64ユ , Polar Mist 54ユ の3隻を運航し、アラスカからハワイ、タヒチ、ニュージーランド、ケープホーンと太平洋の東半分を縦横に走り回っているようです。

 参加者はゲストでも受講生でもなく、クルーであることを要求されます。 

提出書類          

 要求された提出書類は次の通りです。

1、Medical Form

  ホームドクターの電話番号。医療保険の会社名、電話、証券番号。アレルギーの有無。常用薬。手術歴。精神状態。既往症。免疫注射歴。喫煙。アルコール。船酔い。

2、Swimming Ability

  質問書ではなく宣誓書です。

3、リスク回避

  このクルーズが危険を孕んだものであることを前提に、いろんな事故について、OCC の組織に対しても、スキッパーなどの個人に対しても、一切の損害賠償請求を放棄するよう求めています。

  ルール遵守、スキッパーの指示への服従を約束します。医療費は個人負担です。保険も組織側では入らず、各個人が入ることになっています。

  この書類は本人だけでなく、保証人の署名も必要です。

4、Travel Information

  パスポート・ナンバー。到着日。出発日。などを申告する。

5、Crew Questionnaire

  クルーズ参加の目的。特に学びたいテーマがあるか?特に経験したいことがあるか?食事に関して制限があるか(宗教、病気)?

  僕の参加目的は、「いつも乗っている太平洋の向かう側をクルーズしてみたい。」です。

6、支払いに関する書類

  保証人のサインも必要。

7、その他

  一般注意事項、装備品リスト、アドベンチャークルーズへのアドバイス 

装備品リスト        

 船の居住区は狭い。寝袋をのぞいて貴君の荷物は一つの big duffelに納まらなければいけない。それともう一つの小さい duffel か back-packに、洗面用具、日除け薬、虫避け、愛読書、ウオークマン、日記帳、カメラなどを入れておくとよい。自分の持ち物をスコール(大雨)の中で300メートル運べないようなら持ち過ぎである。すべての物を固くきっちりとまとめるように、特に雨合羽類を。全員、Foul Weather Gear を持参のこと。 -以下略-

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アラスカ・イーグル航海記2


出航地ケチカン アラスカ

初日(97/8/23)集合、自己紹介   

 朝から雨模様。11時過ぎにタクシーを呼んでBarr Harbor の#10フロートに向かう。実はこの場所を聞くのに前日大汗をかいたのでした。Port Office に電話して「アラスカ・イーグル号」の着桟位置を聞く、それだけのことなのに生まれて初めて用件をもって外国の役所に電話するのは大事業でした。果たして本当にそこに居るのかどうか、心配です。

 タクシーを降りた場所からは視認出来ません。運転手が一緒に探してくれました。そして見つけた後、一緒に荷物を運んでくれました。

 ゲートを入ってギャングウエイを降りると岸沿いにフロートが浮いています。そしてそこから沖に向かって50メートルほどの桟橋が何本も突き出している。そのそれぞれに#がついているようです。三河御津マリーナと同じ形です。桟橋にはボート、ヨットだけではなく、トローラー型の漁船も同居しています。

 「アラスカ・イーグル号」は桟橋の中程に舫われていました。65フィートの船体も漁船の中で見るとそれほど大きくはありません。白いハルは引き締まって精悍に見えました。スループです。マストがちょっと太く、低いようです。

 船に上がります。4、5人の人がそれぞれ名乗って握手してくれます。一生懸命顔と名前を覚えておこうとしたのですが、結局初見で覚えたのは女性スタッフのシェアリーだけでした。みんなの顔と名前が一致するのには数日を要しました。僕の名前はKaz です。

 12時集合でしたがぼつぼつと集まり、1時前に全員到着しました。船のスタッフ3名と、クルー8名です。

 乗船してすぐにクジを引かされ、自分のバースが決まりました。スタボ側、フォアの2段パイプバースの下段です。その下は救命胴衣やらの物入れです。航海中一番大事な寝場所を公正にクジ引きで決められたのは気持ちのいいことでした。

 全員揃ったところで船内の説明が始まりました。まずデッキの上から。担当は船長のリチャードです。続いて船内をファースト・メイトのシェアリーが説明し、ギャレーおよび食事のことについてビトが説明しました。

  

【艇内の配置】

デッキ

  まずバウのアンカーから説明が始まりました。アンカーの位置説明だけでなくアンカリングそのものの説明をしているようですが、僕にはよく聞き取れません。無人の入り江での錨泊が多いこの航海ではとても重要なことでした。ウインドラスはデッキ上唯一の電動機器です。アンカーウエルは非常に大きく、人間が入って立っても頭も見えません。航海中、陸上に施設があるまでの間ゴミ袋をここに放り込んでおくのでした。

  フォアデッキには1.2メーター角のハッチがあります。ここからフォクスルのセールや、床下の予備アンカーなどを出し入れします。なおセールはジブ、メインともファーラーではありません。

  マストまわりは一つのピットになっていて、主としてハリヤードウインチが並んでいます。マストに4個、デッキに7個のウインチがあります。

  その後ろにメインキャビンとの出入り口があります。頑丈なドジャーが固定されていて、ここで皆がよく読書などをしていました。このピットにはシート類のウインチ8個が集中しています。例の巨大なグラインダーも左右に設置されています。事実グラインダーとウインチを併用しないとジブシートは引けないのでした。ライフラフト2個やプロパンボンベもこのピットにありました。

  そしてコクピットです。船内後部のナビゲーションルームおよびクオーターバースあたりからの出入り口があります。しっかりしたスプレーフードの下に各計器のモニター、エンジン計器盤が並んでいます。4人分のベンチがあります。その後ろがホイール、上端が立って僕の肩くらいの高さになります。一度、ついさぼって腰掛けてヘルムをとっていたら、たちまちシェアリーに「Keep scanning! 」と叱られました。

 

船内

  右舷前部はセールロッカー、左舷側がヘッド(トイレ)です。トイレの使い方の詳しい説明がありましたが、これも完全には聞き取れません。最後まで僕はトイレ内のシャワーは使用しませんでした。

  1.2メーター角のハッチの下は大きなスペースになっています。高さも2メーター以上あって、梯子を登らないとハッチに手も届きません。そしてその後部の両舷に2段のパイプバースがあり、我々の居住区です。右舷上段がマット、下段がカズ、左舷上段リッチ、下段ジムです。その後ろにも両舷に2段ベッドがあるのですが、ここは一応個室に仕切られていてロッカーや抽出などがあります。ただしベッドの幅も天井(上段)までの高さも55センチ程度しかなく、むき出しのパイプバースの方がゆっくりしていて快適とも云えます。右舷上段ティム、下段スコット、左舷にジョンとパムの夫妻が入りました。中央の通路は充分に広く、普段は下げてあるベンチを立て、臨時のテーブルをセットすることが出来ます。

  その後、艇の中央部の右舷側がメインダイニングになっています。6人が腰掛けられます。個室側のバルクヘッドに調味料棚があり、砂糖やミルク、シロップやドレッシングなどが置いてあって自由に使えます。また大きな魔法瓶が2個あって常時コーヒーと湯が用意されています(我々の誰かがやるのですが)。ハルに沿った棚は食料庫であり、上段は本棚です。ちょっとしたライブラリーです。

  左舷がギャレーです。大きな冷蔵庫(冷凍庫はない)と使いやすいオーブンが特徴です。シンクは意外に小さいものです。真ん中にデッキに上がる梯子があります。

  その後ろ、中央のエンジンルームをよけて右舷寄りに通路がありコクピットに通じます。通路の右側にもう一つのヘッド(トイレ)があります。エンジンの横に乾燥室(棚?)があって濡れたオイルスキンを乾かすのに重宝しました。エンジンの左はナビゲーションルームで、コクピット側からしか入れません。

  コクピットの下の両舷に2段ベッドがあって、スタッフの居住区になっています。

 

全体の印象

  アラスカ・イーグル号は建造後20年だそうですが、その年代をまったく感じさせません。一つにはその作りの堅牢さです。金属部分、木組みの部分、FRPの部分、どこにもガタピシしたところがありません。決して優美なラグジャリーボートではなく、むしろ質実剛健なレーサータイプですが、それにしてもしっかり造ってあります。どこかの波止場で誰かが見物人に、「第1回のウイットブレッド出場のために造った船だ。」と説明していたように思いましたが、僕の耳はあてになりませんし、ウイットブレッドが20年前に始まったのかどうか確認していません。しかしもしそうだとしたら、昔はレーサーでもこんなにしっかり作ったのかと驚くばかりです。二つ目は修理技術の確かさと丁寧さです。20年ですから機器類、特に電子機器などすっかり入れ替わっている筈ですが、その付け替えの跡が見えないのです。しっかりと造作されていて追加工事が目につきません。第三に徹底した日常の掃除です。これにはカルチャーショックを受けました。掃除についてはまた後で書きます。

  今時のことですから自動化しよう、省力化しようと思えばもっといくらでも出来るでしょう。例えばオートパイロット、電動ウインチなどです。この船のメインハリヤードを揚げるのに、5人が声をかけて力を合わせないと揚がりません(やわな若者が10人揃っても駄目でしょう)。それを敢えて電化せず、セーリングボートにとどめてておく強固な意志を感じます。

  北太平洋の外海を8.5ノットで機帆走する艇に、限りない信頼感がありました。 ■■■

 

初日(8/23)-続

 船内説明が終わって昼食が出ました。オニオンスープにトーストを浸したもの。全員は座れないので勝手にあちこちで食べます。

 チャートを出して航海の概要の説明。どうやら今日は出航しないようなのでほっとします。

 そしてめいめいの自己紹介。僕は着いた時から自分の家族やヨットに乗った写真を持って、みんなに見せてまわっていました。どうしたって避けられないコミュニケーションギャップを埋めるのに、これは随分役立ったと思います。後からになっても、写真をタネにいろいろと話をすることがありました。

 1時間ほど休んで、夕食は全員で街のレストラン「アナベラ」に出かけました。タクシー1台に11人全員が乗ったのには驚きました。

 レストランでの会食は、お互いまだぎごちない間柄をいくらかでもほぐしてくれました。僕とベッドが上下になるマットは中国人が経営する小さなコンピューター会社に勤めていて、なんと碁を習っています。6〜7級だと謙遜していました。勘定は一人一人自分の飲食した分を払います。税金があり、チップがあってとても厄介なのですがきちんと精算します。ビトが音を上げたらリッチが計算してくれました。後々ももっぱらリッチの役目になりました。

 帰り、僕は勿論タクシーですが、半数が歩いたのには驚きました。3キロの距離です。小降りの雨の中です。

 夜半、24ノットの風に落ちつかない気分です。気温は13度。

 アラスカの名におびえて厚着して寝袋に入ったらかえって汗をかき、そのために風邪をひいてしまいました。熱はないが咳と鼻汁が5、6日続きました。

 

【人物紹介】

リチャード-キャプテン (スタッフ)

 34、5才。威張らない、気取らない、好青年です。航海中、彼が大声をあげるのを聞いたことがありません。多少のことで動じることなく、我々に信頼感を与えてくれました。ヨット乗りというだけでなく、本船の航海資格も持っているようです。何か指示したり、あるいはこちらが質問した時、いい笑顔でウインクしてくれます。僕もこれから真似したいと思いました。悩みは住居がなく、船に寝泊まりしていることだそうです。

シェアリー-ファーストメイト (スタッフ)

 31、2才。勝ち気な女性です。この艇にはリチャードより先任だそうで、その点後から来たリチャードがキャプテンになったのが不満なようです。船の仕事はちょっとしたマスト登りでもなんでもこなします。整った顔だちですが、さすがに陽に灼けていて気の毒です。

ビト-賄い方 (スタッフ)

 66、7才。自己紹介でいろいろ言っていましたがよく聞き取れませんでした。根っからの船員ではなく、好きで船に乗っている感じです。航海中の賄い方を一手に引き受けていましたが、リチャードやシェアリーが気を使っている面もあり、組織内での職責はよく判りません。年配だけの存在感がありました。

ティム

 22、3才。大学院生。背も高く力もありますが、身体のどこかに麻痺があり、左手が不自由です。ピアノ云々と言っていたのでピアノ弾きのアルバイトでもしているかと思ったのですが、後でザバロスのバーで聞いたらあまり上手くありませんでした。

スコット

 28、9才。陽気なカリフォルニアン。ラスベガスで親が食堂をやっています。といって金持ちではなく庶民です。台湾ボートを持っています。

マット

 35、6才。コンピューター会社の課長さんです。子供が一人、航海中は奥さんが母親のところに行っていて、みんなハッピーだそうです。4年前にアラスカ・イーグルでシアトル-バンクーバー間に乗ったそうです。バースが上下の関係で一番親しくなりました。

リッチ

 36、7才。ソフトウエア技師です。理屈屋で、講釈好きです。2年前にこの船でハワイからタヒチまで行ったそうです。つい3週間まえにヨットを買ったと嬉しそうに言っていました。腕は一番確かでした。

ジョン&パム

 50代前半と40才くらいの夫婦です。ジョンは引退した航空貨物便のパイロットで、日本にも何度か来たそうです。マイアミに住み、ムーデイ42を持っています。なおマイアミからケチカンまで17時間かかったそうで、成田からよりも直行時間はかかります。

ジム

 63、4才。引退した造船関係の技師です。種子島の宇宙センターにサポート要員として何年か滞在したそうで、いくつか日本語を覚えています。

カズ

 自己紹介ではヨット歴、職歴、日本の中古艇市場の状況、「PUB-中古艇価格情報」を発行していること、マリンサーベヤーを目指していること、などを話しました。

 なおカズ以外は全員白人です。 ■■■

 

 参加の経緯  メンバー紹介  プリンス・ルパート  北太平洋 食事のこと 
 感心したこと 船内生活  最後の晩餐  乗船資格  カズの評価 

2日目(8/24)出航

 7時出航と聞いていたが、特に点呼がかかるわけでもなない。早起きした者からデッキに出て準備にかかっている。皆何をなすべきか判っているためか、リチャードから大声の指示が出ることもない。時々、シェアリーの声が聞こえる。

 時間通りに、リチャードのヘルムであっさりと解纜し、桟橋を離れました。

 風速12ノット。気温16℃。998hp。小雨がぱらつき、濃い霧がたなびいています。

 朝食。コーヒー、オートミール、マフィン、バナナ、ネクタリン。

 

 皆、黙ってケチカンの町を眺めながら艇は進みました。大きなメインを上げます。ハリヤードを引くのに5人が一斉にとりついて、かけ声をかけて力を合わせないと上がりません。風は6〜8ノットに落ちます。機帆走。

 昼食はヌードルとパン。

 風邪でのどが痛く、しばらく寝ます。 

 16時頃、とある入り江に入ってアンカーを落としました。GPSで見るとNakat Inlet の入り口です。勿論無人です。低く垂れ込めた雲、遠くの山は見えず、岸は荒涼とした感じです。フォアデッキに積んであったデンギーをスピンハリを使って降ろし、フォクスルから取り出した100メートルのロープを運んで岸の木の根に繋ぎました。小雨の降る中、6人ほどがデインギーで入り江の奥の方を探検に行きましたが僕は自重しました。

 この日のデイラン、60マイル。夕食はラムのスペアリブ、マッシュポテト、グリーンピース、コーンケーキの焼き立て。満足です。

 

3日目(8/25)プリンス・ルパート

 17℃。1003hp。

 朝、虹を見ました。明るくなりかけたと思ったがやがて曇り、8時半から雨。

 テンダーでの係留索外しに参加。

 白頭わし(イーグル)が一羽、高い木の上に見えます。アラスカでは鳥もあまり群れないようです。

 朝食。焼き立てのベーグル3枚、ベーコン。

 9時からヘルムをとる。最初はやはり緊張します。リチャードから「170゜に転針」と言われ、一瞬右にきるのか左にきるのか戸惑います。しかし一発で決まって安心。まったく新人のような気持ちです。雨も霧も強くなる。視界2マイル。


アラスカの海を航くKAZ

 

 ヘルムをジョンに代わって下に降りると皆で掃除をしていました。トイレからギャレーからキャビンの座席の下まで、徹底的に拭き掃除をしています。皆不器用で、よくこぼす、よく汚すと思っていたのですが、この掃除ぶりもすごいものでした。我々のようにあまり汚さないであまり掃除もしないのより、かえってきれいかもしれません。掃除は航海中毎日続きました。特に当番をきめるのではなく、誰か手の空いた者がやります。見習うべきことです。

 リッチとマットが以前この艇に乗ったことがあり、率先垂範していることもありますが、すぐに皆が同調して動き出すのは普段からの心得があるからと思われます。けっして今回だけの付け焼き刃ではありません。

 昼近く、デッキに出ると思いがけず島影が近い。正面に遠く建物が見える。工場のようだ。久しぶりに人間世界に戻った気がします。

 昼食はツナサンドとサラダ。ライブレッドがちょっと焙ってあってとても美味い。デッキに持ち出して港への進入を楽しみながら食べました。知らない港に入って行く時のスリルこそ、僕のクルージングの楽しみの最大部分です。工場が見えてから3時間ほど進んでプリンス・ルパートに着きました。


プリンス・ルパート

 ここからカナダに入ります。カナダ最西端の町。海岸線では最北端の町です。気が付くとリチャードがフラッグラインにカナダ国旗を掲げていました。

 VHSで連絡をとり、着桟の桟橋の指示をうけます。とあるヨットクラブの前でした。シェアリーが出かけて行って入国手続きです。20分ほど待って若い女性の係官がやってきました。それぞれのパスポートにスタンプを押してくれます。僕の場合はアメリカへの入国スタンプと帰りの航空チケットを見せてOKでした。

 早速町に出てぶらつきました。人口1〜2万人の感じです。もっと大きな町と思っていたのですがケチカンの方が観光客が溢れてずっと活気がありました。ギフトショップや釣り道具屋をひやかします。バンクーバーアイランドのチャートを買いました。20C$です。ビールを飲みに「スマイルズのシーフード」の店に入りました。そこで食べた baked black cod は絶品でした。僕の生涯で、こんなに旨いタラを食うことはもうないだろうと思わせました。

 19時、皆でヨットクラブのすぐ隣のレストランに出かけました。今夜は外食です。牡蛎フライを頼みましたが揚げ過ぎと、トマトソースの味がが合わず頂けませんでした。

 パムが先頭にたってプール(ポケットボール)を始めました。パムはなかなかの腕だし、スコットやジムも手慣れています。パムはちょっと酔っていて、僕にどうしてもやれと言います。一からルールを教わりながらジョンと手合わせしたのですが、なんと生まれて初めてのゲームで僕が勝ってしまい、喝采を受けました。学生時代四つ玉を突いていた経験がものをいったようです。ただし他の連中とやるほど身の程知らずではありません。

 僕は10時頃帰って寝ましたが、皆は12時になったようです。


キューを構えるパット

 

4日目(8/26)グレンビルチャンネル、触底

 7時起床。皆はゆっくりしている。

 15℃。1003hp。少し明るくなってきているようだ。雨は降っていない。

 上陸して絵はがき投函。グースの飛び立つのを見る。シールズの頭を見る。スコットが桟橋の先端に入れておいたかごを揚げたら15センチほどのカニが5匹入っていた。全部逃がしてやる。

 給油して出航。離桟からずっとヘルムをとる。

 幸い雨は落ちてこないが、湿度の高い曇り空。 

 やがてグレンビル・チャンネルに入ります。ここはカナダ本土とピット島との間の、幅1000メートルくらいでほぼ直線に50マイルも続く、まるで運河のような海峡です。水深は100メートル以上あります。


グレンヴィル・チャンネル

 ヨット2隻を追い越します。アラスカ・イーグルは機走で8〜8.5ノット出ますから、30〜40フィートのヨットはすぐに追いつき、追い越します。2隻は一緒に航海しているようでした。飛鳥級の客船2隻と行き違います。Windward と Vendome です。ケチカンに行くのでしょう。静かにしていると鳥の声が聞こえます。ひょう、とアオゲラみたいな声が聞こえました。

 グレンビル・チャンネルの中程あたりの入り江に左折して入って行きます。今夜はこの奥で錨泊です。チャートを見るとアラスカ・イーグルが3年前の1月にここに入った書き込みがあります。1月に氷結しないのでしょうか。リチャードはここは初めてのようです。急流が流れ込む川などを見ながら、錨泊予定の入り江に向けていたところ、いきなりガツンと触底しました。岩です。立っていた僕は思わず前にいたシェアリーに抱きつくほどの衝撃でした。ジムがヘルムをとっていたのですがすぐにリチャードに代わります。しかし彼は声一つ上げるでもなくアスターンをかけ、ゆっくり離礁、チャートを確かめながら再進入して行きました。

 奥はアラスカの深い原生林に包まれた静かな入り江でした。ヨットが1隻、先客で泊まっていました。VHFで呼びかけるとかテンダーで表敬訪問でもするのかと思ったら、そんなことは何もしないのでした。

 テンダーで入り江の奥まで探検に出かけます。上陸しました。まさに未開の土地です。テンダーを岸の岩に結ぶ時に、こんなところでリッチがヒッチとベンドとノットの違いの講釈を始めたのには笑ってしまいました。

 小川が流れこんでいましたから鮭のシーズンには熊が出るかもしれません。蚊がいました。なんとトンボ(ブルーのやんま)を一匹見かけました。岸辺を航走っていて白頭ワシが悠々と飛ぶのを見ました。シールズがいました。戻る頃、驟雨となりました。

 本日の朝食はシリアルとコーヒー。昼食はパン(日本の食パンではなく、もう少し堅焼きの7センチ角のものです)とミートソースにタマネギのスライス、粉チーズと妙なものでした。夕食は塩ゆでのビーフにポテト、人参、キャベツ添えです。どれもレトルト食品ですが、ビトが程良く温めてくれています。なお彼らは特定の人(ティムとビト)以外はスナック(菓子類)は殆ど食べません。

 

5日目(8/27)北太平洋

 雨は降っていないが濃い霧である。17℃。1003hp。

 6時には皆起き出して、6・15出航。

 すごい霧で、シェアリーがヘルムをとって2〜3ノットで進む。気の強い彼女がこんなに辛抱強く、長時間、微速前進を続けるとは思わなかった。一方でリチャードは昨日ジムがオンザロックしたまさにその地点でデインギーをフォアデッキに引き揚げる作業にとりかかる。動じないというか、なんというか。

 グレンビル・チャンネルに戻って霧はますます深い。リチャードがナビルームでレーダーを読み、シェアリーが舵をとる。

 朝食。フレンチトーストにハチミツとジャム。ネクタリン。

 魚(60〜70センチ)が跳ね、シールズが頭を出し、鳥が鳴く。

 8時から昨夜発表されたワッチ体制に入る。クルー8名にビトが加わって9名が、3名づつの組になって交代する。日中は4時間、23時〜08時は3時間交代である。僕はマット、ティムと組む。

 11時、やっと50マイルのグレンビル・チャンネルを抜けました。いよいよ北太平洋です。次の寄港地まで250マイルをひた走ります。

 この時の皆の動静。リチャード-コクピットに。シェアリー-寝ている。ビト-食事の支度。リッチとパム-ワッチ。ジム、スコット、カズ-読書。ジョンとティム-寝ている。マット-ナビルーム。

 11・30。メインを上げました。大の男が5人揃って力一杯引き揚げます。

 昼食。ピザ。Good!

 15・30。ゼノアを上げて純帆走に入る。初めての純帆走に皆歓声。215゜、8ノットで快走。


左からスコット リッチ、マット、リチャード、シェアリー

16時。我々のワッチとなる。いるかの群に遭遇。6〜7頭のグループがあちこちに幾つも見える。全体に西に進んでいるようだが、船に向かってきて船底を潜るのが多い。遊んでいる。

 17時。セールチェンジ、#2に。

 夕食。小麦粉の薄焼きに、鳥肉やカレールウみたいなのを挿んで食べる。

 20時。次のワッチに交代。

 20・40。270゜に日没。日本の方向なり。こちらから見ると日、没する国だなと思う。

 

6日目(8/28)北太平洋

 01・45。ワッチに起こされる。12・30に眼が覚めて、もう眠るつもりはなかったがやはり寝てしまった。

 02・00。ワッチ交代のタイミングでタック。90゜に向かう。この時の服装。厚手のTシャツ。厚手の長袖シャツ。厚手の毛のセーター。フリースの長パンツ。マリンブーツ。その上にヘビーデユーテイのオイルスキン。それでやや肌寒い。

 満天の星である。北斗七星からすぐに北極星を確認。カシオペアもあり、間違いない。デネブ、アンターレスなども日本と同じに輝いている。

 03・00。細い細い月が70゜の空に上がり始める。バウのたてる波に映える航海灯の紅緑の光。星空を区切るセールの黒い影。船尾の引き波のかすかな水音。セーリング、船を帆走させる技術を覚えたことの幸せをしみじみと噛みしめました。

 この太平洋の東端に日本の歌を一つ歌い納めようと、夜の海に一人歌いました。

    逢いはせなんだか小島の鴎
    可愛いあの娘の泣き顔に
    嫌だやだやーだ別れちゃ嫌だと
    今も聞こえるさこの胸に ダンチョネ

 ティムが「ビューテイフルソング!」と言ってくれました。

 05・00。ワッチオフ。すぐ寝てしまう。08・00、次のワッチ交代時に眼を覚まして起きる。二日ぶりに歯をみがき、ひげを剃るが、顔を洗おうとすると水が止まってしまった。

 朝食。トーストと半熟卵2個。あまり食欲がない。

 青空。我々の次のワッチから機帆走になっている。下着一式着替える。6日ぶりである。スリーピングバッグから枕から、下着から何から、みんな湿っけた感じで不快。気分さえないが掃除をする。

 午前。メインセールのリーフの練習。メインシートを締めるためにグラインダーを力一杯回して腕が痛くなった。各操作についてはなんとかこなしているが、力のないことはばれたようだ。

 昼食。パンにハム、ベーコン、チーズをスライスして置いてある。ブドウ。誰も皮を出さない、そのまま食べる。

 午後。晴れ、18℃。あたり一面海。日本の海と違うのは船影を見ないことだ。太平洋に出てから、この後ビクトリアに着くまでの12日間に見た本船は1隻のみ。

 夕食。ライス(メキシコ風)、いんげん、牛肉缶詰。薄味なのがいい。

 11・00〜02・00。ワッチ。昨夜より暗く、寒い。

 

食事のこと

 食事は航海中最大の関心事ですし、これからの船での食事の参考にもなりますから詳しくリポートしています。

 はじめの連絡では食事も自分たちで作るようになっていましたが、実際にはビトが全部献立をしてくれました。勿論殆どがプレ加工食品ですが、そこにレーズンを加えるとか、レモンを一たらしするとか、ビトが気のきいた工夫をしてくれるのでした。

 鍋のものは各人の欲しいだけビトがよそってくれますが、それ以外はサイドテーブルにボールで出して、それぞれ好きなだけとります。追加にも応じられるよう、それでいてあまり余らないよう、丁度よく作る勘は見事でした。

 献立の内容もバラエテイに富んでいて、飽きさせず、感心しました。特にカリフォルニア(OCCの根拠地、ビトの自宅)あたりは近年メキシコや中南米の食文化が入っていて、それがメニューの内容を豊富にしているようです。

 肉料理は予想外に少なく、シリアルやビーンズ、ライスを使ったメニューが多かったです。日本人は米というとまるで自分たちの専売特許のように考えていますが、米は世界中で食されています。日本人の情緒的な米偏愛は、長い間の米本位制の影響でしょう。本当に米こそ我が命というのなら、本気でコストダウンと収量アップを考えなければ駄目です。

 食器はメニューに合わせて大皿、深皿、丼と3種類あって、使うのは毎回1枚だけです。それと必ず紙ナプキンを1枚とります。例えばスープとパンの場合、パンは紙ナプキンにとります。彼らは不器用なのかよくテーブルこぼすのですが、それを紙ナプキンで拭います。そして最後に必ず、使った1枚の食器を紙ナプキンで拭ってシンクに入れます。

 これは水が大切な船上では非常に有効な方法でした。きれいに拭ってありますから、シンクでは生ゴミがまったく出ないのです。食器洗いは誰か手の空いた人がします。当番を決めるのではなく、以心伝心、誰かがやります。

 15日間を通じて、毎食、旨いと思って充分食べました。妙な、と思ったことはあっても、不味いと思ったことはありません。日本食が恋しいとか、何を持ってくればよかったとか思ったことは一度もありませんでした。

 何でも食べられる丈夫な身体を授けてくれた両親と、それを維持してくれた妻に心から感謝しています。

 同僚諸君も、皆与えられたものを残さずにきれいに食べていました。あれは嫌い、これは食べないといった言葉はまったくありませんでした。それは見事な躾でした。

 飲み物はコーヒーと湯が常時ポットで供されていて、テイーやミルクチョコレートを作って飲むことが出来ます。また粉末ジュースを水で溶いて作ったジュースのポリ缶が置いてあります。缶ジュースではなくこうしていることが空き缶のゴミをどれだけ減らしているか判りません。ミルクは必要な時にスキムミルクを水で溶いて作ります。

 クルーの持ち込み食料が殆どなく、ビトの使う食材も業務用の大型包装なのでゴミとして出る包装材料が驚くほど少ないのでした。日本の過剰包装をつくづく悪と思いました。  ■■■

 

感心したこと

 同乗した人たちについて、感心したことが多かったので書いておきます。

1、禁酒、禁煙

 これは最初にリチャードから言われたのですが、船上では禁酒、禁煙でした。ヨットでは酒はつきものと思っていたのに禁酒と聞いてショックでしたが、それもさっぱりしていいものでした。

 禁煙の方は、もともとタバコを吸う人は誰もいませんでした。

2、掃除

 掃除のことは先に書きました。最後にまた書きます。

3、食事の好き嫌いがない。食べ物を残さない。

 これが美徳だと、現在の日本の若者は思っていないのでしょう。嫌いなものは食べないのが美徳だと考えているのかもしれません。

 なお補足ですが、彼らとバーで飲んでいて、僕がビールを残すと「もう飲まないのか?」と確かめて、そのビールを自分のグラスに入れて飲んでしまいます。誰かが食べ物を残すと、誰かが食べてテーブルには残しません。

4、スナックをあまり食べない。

 彼らは間食を殆どしませんでした。

5、水の始末

 当然ですが、水の節約は身についていました。

6、楽しみ方

 夕方などの楽しみ方が実に健康的です。アラスカ・イーグルにはテレビもビデオもありませんでしたが、揃ってコクピットに集まってクイズをしたり、歌を歌ったりします。スタッフがそんな遊びを準備するのではなく、自然発生的です。

7、よく本を読む

 彼らは実によく本を読んでいました。船にちょっとしたライブラリーがありましたが、彼ら自身も何冊も持ち込んでいます。船に関する本が3分の1で、あとはミステリー(コーンウエル、クーンツ、グリシャムなど)などの読み物です。全員が読みかけの本を持っていたし、日中は常時4〜5人が読書中といった状態でした。船関係の本はスタンダードナンバーだし、ミステリーは殆ど日本で翻訳が出ているので、半分以上は僕も読んだことのある本でした。つられて僕も船にあった「ザ・ジャーニー」(J・ミッチェナー)という小説を読み上げてしまいました。

 全体を通じて言えることは、全員がシーマンシップを身につけていた、ということでしょうか。 ■■■


前列左から マット ジム ジョン カズ
後列左から スコット テイム リッチ

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アラスカ・イーグル航海記3

7日目(8/29)ウインター・ハーバー

 07・00に眼が覚めるとデッキで音がします。身支度せずに上がってゆくと既に入り江に入りつつありました。48時間ぶりの陸地です。岩根が張り出しているようで、左岸にずっと近寄って入って行きます。また無人の入り江か、シャワーはないのか、とがっかりして着替えに下りました。少々人恋しくなっているようです。次に デッキに上がると人家の集落が見え、カナダ・コーストガードのフリゲート艦が停泊していました。ほっとしました。

 十数軒の集落です。電線が見えます。ウインター・ハーバーというところです。オイルスタンド、レストランが見えるが釣り客用でしょうか。実に穏やかな雰囲気です。

 アンカーをおろして朝食をとりました。ベーコンとワッフル3枚。11・30まで休憩。デッキで寝てしまった。日が照って快適でした。

 テンダーに昼食を積み込んでピクニックに出かけることになりました。その前に上陸して買い出しをしました。1軒だけよろずショップがあります。文具から釣り具から野菜から酒から花の種まで、なんでもあります。ビール、ワイン、コーラを仕込んで、のんびりと湾の中を周りました。昼食はチーズ、ツナサンド、人参・オニオン・ズッキーニにマヨネーズのサラダ。湾奥でちょっと上陸したりして3時間の舟遊びでした。

 艇に戻って、よろず屋のシャワーを浴びに行きました。2$です。7日ぶりのホットシャワーに身も心もほぐれました。極楽です。

 こんな小さな部落なのに海岸に沿ってボードウオークが張ってあります。なんとも洒落れた感じです。週に3日開く郵便局があり、皆は自宅に電話していました。僕はハガキを出しました。そこにあったパンフによると、この部落は北米大陸で最もアジア(つまり日本)に近い settlement なのだそうです。

 郵便局の外で、たまたま通りかかった地元の婦人が散らかった空き缶を拾って片づけていましたが、その優雅なたおやかな姿に感動しました。どうしてこんな田舎にこんなレデイがいるのか不思議でした。

 夕食は皆でコクピットに集まり、ワインを開けながらのパーテイでした。ライス、スピナッツ。バーベキューのコンロでビーフを焼く。サラダの中味-たまねぎ、バナナ、トマト、ズッキーニ、レーズン、ピーナッツ、パインの実。

 隣りに停ったヨットの老人が2人遊びに来ました。2人とも70才以上です。

 

8日目(8/30)デキシー・コーブ

 07・00、揚錨。出航。薄雲が広がるも晴れて、風は穏やかです。朝食はシリアル。

 風が弱い時はジブをポールで張り出しますが(まさに帆船)、ポールのセットから引き揚げまで、6から7人がかりの大変な作業です。 

 キャビン内の掃除。ロープワークの練習。ロープを投げて空中で結んでしまう結びとか、パッと解けるハイウエイマンズ・ヒッチなど新しい結びを覚えました。

 ある岬の先でまんぼうに遭遇しました。彼らはサンフィッシュと呼びます。艇を回して写真をとりに行っても悠然とぷっかり浮いていました。


洋上に浮いたマンボウ

 

 ひるはチャーハン(ライス、マッシュルーム、ベーコン、卵)、ビーフシチュー、トマト。珍しくリチャードが作りました。ベリーグッド。

 デイラン、65マイル。今夜の泊地はデキシー・コーブという無人のポンドです。本当に入れるかどうか、デインギーで先乗り偵察します。そして入って行ったところは直径500メートルの完全に円形のポンドでした。水深15メートル。慎重にアンカーリング。気温は21℃に上がりました。

 デインギーで探検に出ました。上陸に好適地を見つけて上陸したら焚き火の跡が3カ所もありました。誰もが上陸したいと思う場所のようです。貝がいます。象虫のような虫がいます。鳥がないています。スコットが鳴きまねをすると鳴き返してきました。細い水路があり、そこを抜けると広い水面に出ました。少し行ってみます。岸の近くの、つまり搬出に都合のいいところの樹が伐られて切り株が残っています。径70センチ〜1メートルの巨木です。ここ20〜40年の間に伐られたようです。戻って行くと木の間隠れにアラスカ・イーグルのマストが見えてきます。まさにホーンブロアやキャプテン・クックの世界です。檣頭のカナダ国旗、スタンの米国国旗が実に印象的です。後から出かけたグループはバンビ(子鹿)を見たそうです。

 夕食はマットのギターソロのテープ(オットマル・リーベルト)を聞きながら、ろうそくの光で食べました。ターキー(クランベリーソース)、コーンのスタッフィング、ビスケット。食後はクイズ大会でした。クイズが書いてあるカードがたくさんあって、それを読みながら皆で答えをだすのです。芸能関係はパム、スポーツ関係はリッチとスコット、文化関係はビトとマットが強いようでした。

 

9日目(8/31)ザバロス

 08・30。ゆっくり出航。暖かくならない 朝食。オートミールにシナモンケーキ。

 沿岸航海。スキッパーのリチャードが、僕にバックスプライスの頭のクラウンノットのやり方を教えてくれという。ロープワークに関しては一時期熱中したのでちょっと威張れる。

 エスペランサ湾に入る。湾というより水道である。狭く深い水道が奥深く入り込み、かつ抜けている。今日の目的地ザバロスは湾口から17マイル入ったところ。幅5〜600メートルで水深60〜100メートルのチャンネルを18ノットのクオータリーの風で帆走する。最高なり。

 ザバロスの船溜まりを前にしてアンカーリング。リッチとスコットがデインギーで先乗り。トランシーバーを持っていったがいつまでたっても連絡がない。今日は日曜だから、と言ったら、ジムが「ここでは毎日がlazyなんだ」と言う。40分たってやっと合図があった。

 4・00。着桟。2〜30隻の船溜まりで、木の桟橋が出ている。停泊料、37$10¢。

 特筆すべきことだが航海中立ち寄った泊地のどこでも、漁港であれバンクーバーのような大港湾であれ、防波堤なるものを見たことがない。

 ザバロスは40年前まで金を掘っていた鉱山の町で今は寂れ、侘びしさが漂っています。人口数百人か。上陸して歩くと役場、図書館、ショップが1軒、ホテルがありました。2階がホテル、1階の右半分がレストラン、左半分がバーです。バーに入ると薄暗く、いかにも寂れた鉱山町のバーです。商売人らしいマスターが一人でとりしきっていて、ウエイトレスはいません。黒板にチョークで「世界一のバー」と書いてあります。ビールを飲みました。ここでダイアナの事件を聞きました。

 スコットやパムが玉突を始め、ティムがピアノを弾きました。うらぶれたバーに相応しく、風情がありました。僕は一度艇に戻って本を読んでいたのですが、みんな戻らないのでまたバーに行きました。すっかり出来上がっています。ジムやスコットが酔って玉を突き、パムがみんなにビールを奢っています。痩せてひょろひょろしたいかにもプアホワイトの老人が、席にいた知り合いに頼んでツケにしてもらってビールを一杯とりました。そこに腹の出たデブのプアホワイトがやってきてカウンターに行くがビールは出ません。戻って痩せのビールを一口盗み飲みしました。痩せがスコットとプールを始めます。なかなかの突きぶりです。昔は羽振りよく遊んだのでしょう。パムがすっかり酔っぱらって、デブも痩せも、店中の全員と握手してまわっています。こういうところ、分け隔てのないのがアメリカ人のいいところでしょうか。

 なお、ケチカンからビクトリアまで、黒人にはまったく会いませんでした。若干インデイアンの血がまじった人がいました。

 決めた9時までに艇に全員戻ります。律儀です。夕食はシュリンプの入ったスパゲッテイとガーリックトースト。美味。酔ったパムがなんと逆立ちします。皆で歌を歌います。そしてまたまたバーに出かけました。

 

【音楽のこと】

 出発前、CDウオークマンを娘夫婦からプレゼントされました。嬉しいことでした。

 往きの機中、隣りに座った青年がバッグからCDを出してイヤホンで聞き始めました。みると厚いアルバムに一杯のCDです。見せてもらうと70枚も入っていました。ちょっと新しぶって「メタリカが好きだ」というと、それはなくて「マンテーラを知っているか」と聞きます。イヤホンを貸して聞かせてくれましたが、その音量に驚きました。プリンス・ルパートのスーパーで見つけて買いましたが、ヘビー・メタルに過ぎます。

 自己紹介の口上で、ティムがよほどピアノを弾く人かと思ったのですが、ザバロスのバーで聞いた演奏はご愛嬌でした。でも暗譜で数曲弾いたのだから大したものです。それを聞いて以来、彼の人間性にずっと親しみを感じました。

 自分のバースでウオークマンを聞いていて、コクピットに出るとなんと今聞いていたのと同じ曲がスピーカーから流れています。と思ったのは錯覚で、ギターソロでも演奏家が違っていました。「これは誰だ。誰のCDだ。ジャケットが見たい」と騒いだら、マット持参のテープで「オットマル・リーベルト」と判りました。それから何度もそのテープをかけてくれました。マットと仲良くなったのはそれがきっかけだったように思います。

 いつも旅先ではヴォーカルの方が心に染みるので、今度もヴォーカル主体に持って行ったのですが、北海の荒々しい自然の中では玉置浩司や飛鳥、南こうせつ、中島みゆきの叙情は心に届かず、よく聞いたのはサンタナとパコのギターでした。    ■■■

 

船内生活

 最初に全般的な注意があっただけで、あとの船内での行動は自律的というか、まったく個人の判断でした。起床、就寝、なんのきまりもありません。(翌朝の出航時間は発表される。)食事も、出来たぞ、と声がかかるだけです。食器洗い、掃除、ゴミの片づけ、みんな自発的行動で、当番はありません。

 唯一、決められたのは2日間の外洋航海のワッチだけでした。

 夜はよく寝ました。昔から波に揺られてシュラーフで寝る方がうちで寝るよりよく眠れるタチですから。

 水は比較的潤沢に使えたのですが、温水が出ないのでシャワーが使えず、特にはじめのうち天候が悪い日が続いた時はこたえました。一部の人はヤカンに湯を沸かして使っていました。

 ゴミは食料の包装資材、毎食の紙ナプキンなどいろいろ出ますが、毎日大きなビニールのゴミ袋に一つでした。11人が生活しているにしてはとても少なかったと思います。ゴミの量にすごく敏感になります。

 上陸地のどこでも、ゴミが散らかっていないのは驚くべきことです。ゴミの始末に関しては、日本人は未開人の域を脱していないと断言して構わないでしょう。特に日本の漁師は悪い。

 トイレの汚水は外海で流しました。

 船内では最初から最後までファーストネームしか使われません。キャプテンのリチャードだけ、時にキャプテンと呼ばれただけです。姓がないからミスターもドクターもなく、年寄りも若手もありません。まったくイーブンです。意図的にそうしているのか、アメリカ人社会の通例なのか、判りません。

 日常生活での英語には特に不自由はありませんでした。単語や表現で判らないことでも、何度でも聞き直せばいいことですし、こちらからの伝達も何度でもあれやこれや言っていると(的確な単語・表現を知っていて、かつ発音が正確であれば一度ですむことですが)、向こうで察してくれます。臆せずに、諦めずに何度でも言うことです。お互いに理解する気持ちがあれば、時間をかければすべて通じます。

 ただ僕個人に関わることではなく、例えば急に風の状況が変わって新しい指示が出た、というような場合、僕は即座には対応出来ません。皆の動きを見たり、まわりの誰かに聞いておもむろに対応することになります。ウイットブレッドでの小松一憲さんの苦労が偲ばれます。彼の場合、日本やヤマハを代表していたのですからね。

 持参した「歳時記」は開く気になりませんでした。英語の世界に没入するのに精一杯で、美しい日本語を探す余裕はありませんでした。 ■■■

 

10日目(9/1)ホットスプリング・コーブ

 今朝は独身時代のお見合の夢をみた。前夜は新入社員時代の夢。どこか普段と違う感情線を刺激されているようだ。

 ゆっくり、10時出航。朝食はシリアル。

 狭く深いタシス・ナロウに入って行く。これはエスペランサ湾の奥から隣りの湾に抜ける細く長い水道で、素晴らしい景観が続く。高い山、遠くには雪が残る。深い原生林の中、電線も道路もない海辺に数軒の集落が見える。車がない。実にきれいにしている。どうしてこんなところに?

 ナロウを抜けて外海に向かう。午後セーリング。14ノットの風だがアゲインストで厳しい。ひるはコーンスープにソーセージ。ヨーグルトとレモンでひと味付けるのがビトの腕である。

 19・30、やっとホットスプリング・コーブに着く。ここはカナダの国立公園らしく、人家はないが桟橋が設置されている。ボードウオークがあってティムと歩き出したら随分と距離があり、50分歩いて岬に着いたらそこがホットスプリングだった。もう暗く、帰りはちょっと危険だった。

 夕食はクラムチャウダー、ポテト。みんなもう済ませていた。

 

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11日目(9/2)トフィーノ

 朝食。トーストのみ。だんだん簡略になる。

 みんなホットスプリングにタオルを持ってでかけたが、また50分歩くのも大儀なので残ってゆっくりする。ひげを剃り、歯を磨き、顔を洗う。この三つのことが毎日出来ない。食器を洗い、リンゴをむいて食べ、ココアを飲む。デインギーに乗って遊ぶ。暖かい。19℃。

 12・15、出航。ひるはトマトをのせたピザとスープスパゲッテイ。

 快適な機走で16・00トフィーノ着。ここはバンクーバー島の太平洋側で一番大きな町だ。産業はなく、漁業と観光の町のようだ。素敵な別荘やレンタルのコテジが海岸線に並んでいる。水上飛行機が3機、客待ちしている。

 とあるヨットクラブの桟橋に着ける。上陸してクラブハウスでシャワー。町まで歩いてショッピング。こぎれいな町だ。スコットとティムがデビークロケットのような毛皮の尻尾のついた帽子を買ってきて大はしゃぎ。シェアリーが買ってきた雑誌は Fine HomeBuilding 。何か女心を感じさせていじらしい。

 スコットが僕の家の広さを聞く。家族の写真で見て知っている。150・というとリッチが早速スクエアフィートに換算してくれる。

 夕食はサーモンのグリルと、コーンとトマトの炒めもの、ライス。

 チャーターの釣り船が続々と戻ってくる。大きなサーモンを10匹以上積んでいる。桟橋の根本に流しがあって、船頭がはらわたを出してやっている。17〜20フィートのボートで、船頭がついて1日120〜150$らしい。

 夜、皆がクラブハウスに飲みに行ったあと、マットとギターの曲を聞きながら星座を眺める。ほとんど知識が共通している。ギリシャ文化の偉大さを思うべきか。

 

12日目(9/3)エフィンガム島

 快晴。朝食、シリアルとミルク、ピーチのケーキ。

 ビトとシェアリーが出かけて生鮮食料を補給。11時、出航。

 ひるはタマネギを入れたツナサンド、サラダ(レタス、紫色のキャベツ、赤ピーマン、オリーブ、粉チーズ)。グッド。

 16・00、外洋の洋上で緊急訓練。ヒーブツーし、デインギーをフォアデッキから下ろし、船外機を下ろして走らせる。

 17・30。バークレイ・サウンドのエフィンガム島の湾に錨泊。入り江の中と違い、外洋にすぐ背中を接した島である。デインギーでちょっと行こうというから乗ったら、島の外周をまわり出した。ヤンキーは陽気である。洞窟があったり、小さな浜があったり素晴らしい景観だが、だんだん恐ろしくなった。島の外にどんな潮流があるか判らないのに、船外機のゴムボートにいつどんなトラブルがあるか判らないのに、無謀ではないか。僕にとっては本航海中、最大のアドベンチャーであった。

 夕食。ビーフステーキは初めてのご馳走。ポテト。アーテイチョーク、玉ねぎ、トマト、チーズ、ソーセージのサラダ。

 そろそろ航海も終わりに近づき、皆なんとなくコクピットに集まって雑談。僕は質問に答えて日本の方言のことなどを話す。日本への関心の度合いはそこまで深まっている。冬の季節風が25ノットも吹くと言ったらあきれていた。

 

【ナビゲーションルーム】

 GPSのモニターに出るチャートは、日本のものよりずっと詳しいです。

 レーダーがあります。気象FAXがあります。

 風向風速は真の風速風向、風に対する艇の進行角度が表示されます。コクピットのモニターにも出るので、角度による艇速の変化をすぐに見ることが出来ます。

 通信手段はVHF、SSB、アマチュア無線と、サテライトなんとかいうのがあって、これでインターネットに入り本部と交信していました。

 オートパイロットはありません。 ■■■

 

13日目(9/4)レンフルー

 8・15、出航。雨のち曇り。小麦粉の薄焼きにミソペースト。昨夜我々のあとから湾に入ったヨットは、早朝に出航して行った。

 もうバンクーバー島も南端に近い。このあたりまでくると、たとえ再生していても森はあきらかに一度は伐採されている。アラスカではまったく人の手が入っていなかった。アラスカ人気の所以であろう。

 昼食。ビーンズのスープ。チーズブレッド。

 15・00、湾をちょっと入ってとある漁港の先にアンカーを下ろす。大型の漁船が1隻着いたばかりで、大きなサーモンをベルトコンベヤーで揚げている。その他あわせても10数隻の港である。ポート・レンフルー。もとより防波堤はない。リチャードが様子を見てダブルアンカーを指示。船底から30キロのダンフォースを取り出し、デインギーで運んで落とすが大仕事なり。

 上陸して波止場のとっつきのバーに入る。いかにも寒村の貧しげなバーである。16・00頃、まず年寄りが入ってくる。やがて10人ほどになる。ザバロスでもそうだったが、夕方はこうしてバーに集まるのだろうか。ジムとスコットが玉を突いていたら、あきらかにインデイアンの血が入った若い女性がジムに挑戦してきた。そして軽く勝って、一礼して出ていった。

 店を出て歩いていたら新しいホテルがあり、そこのバーに入った。先ほどとはうって変わって瀟洒な店だ。レストランも併設で、客筋はさっきの店とまったく違う。そこでビールと珍しくいろいろとツマミをとった。ここでもプールが始まったが、台は1ゲーム2$の有料だった。なおプールでは内輪の時も外部の人とも、賭けてはいない。そばにダーツがあり、遊んでいたら真ん中に的中した。すると皆が「ボーズ・アイ!」と喝采する。ジョンとゲームをしていたらまたまたボーズアイを出す。これで大騒ぎするとは、彼らはよほど不器用なのだろうか。

 夕陽が紅い。湾口の方に落ちる。その彼方は日本。山が二段に染まる。

 トマトソースのマカロニ。スクウオッシュ(かぼちゃ)。何のソースかと思ったら、バターとブラウンシュガーを載せただけとか。皆、最後の夜と思ってかデッキを去りがたい。普段は話に加わらないリッチまでやってきてよもやま話。

 夜、風が出る。


ボーズアイを出した 完勝

 

14日目(9/5)ビクトリア

 夜中かなり揺れる。スタンアンカーを上げるのに予想通り苦労する。

 7・30、出航。いよいよ今日はビクトリアに入る、最後の航海である。オートミールとマフィン。

 ホワンデフカ水道に入る。対岸はアメリカである。シアトルやバンクーバーに出入りする本船がこの水道を通るのでもっと輻輳しているかと思ったが、意外に船がいない。

 リチャードにヨット用語をいろいろと教えてもらう。例えば「係留索を投げる」とか。昼食。マッシュポテト。ライスにビーンズ。ソーセージ。中南米料理である。

 正面にビクトリアの街を望む。ホエールウオッチングの高速ボートが殆ど10分おきに出て行くのに驚く。満席である。

 15・00。ビクトリア入港。州議事堂とエンプレスホテルの真ん前のポンツーンに着ける。そのあたりは街の中心の最高の場所であり、観光客が集まり、大道芸人が出ている。そんなところに衆人環視の中を着桟。なんとなく面映ゆい。停泊料、1泊50$。


ヴィクトリア  州議事堂の前の桟橋に着桟した

 見ると議事堂の国旗もエンプレスホテルの国旗も半旗になっている。プリンセス・ダイアナを悼んでのことであろう。リチャードに指摘すると、それは good idea だと言ってアラスカ・イーグルの国旗も半旗にした。

 次に何をするのか、すぐそばにあるツーリスト・インフォーメーションに行ってホテルの予約でもしようかと考えていたら、リチャードから何か指示が出た。何か判らずジムに聞いたら、「ビルジの掃除だ」という。うろうろしていたら凄いことが始まった。床板を全部外してデッキに上げる。そして船底を真水で拭きだした。徹底している。塩気を完全に抜いている。デッキに上げた板は大きな艇なので20枚にもなる。これも洗剤をつけて真水で洗い、そして拭いている。こんなに完全な掃除は見たことも聞いたこともない。だいたい我が「ウインデイ・ホリデイ」は進水以来、船底を拭いたことなど一度もない。僕の知るかぎり日本にはそんな文化はない。20年たった「アラスカ・イーグル」がこれほどしっかりしているのも、この掃除があるからなのだろうか。壁板は数日前から皆で拭いていたし、ビトがギャレーや食品庫の中味を全部取り出して掃除をしていた。

 簡単な指示で全員が動き出した、格別役割の指示もないのに全員がそれぞれ仕事をしている、ということは普段からやりつけているからなのだろう。僕はすっかり感激して「これは今回の航海で学んだ最高のことだ。日本に帰ったら日本中のヨットマンに伝えたい」と拙い言葉でリチャードに賛辞と謝意を述べた。

 大掃除が終わって19・00まで自由時間。あっと言うまに皆町に飛び出して行った。僕はこの後ビクトリアに2泊、バンクーバーに2泊する予定だが、皆はもう明日の午前までしか時間がない。美しい町だ。 

 19・00に全員戻る。そして連れだって最後の夕食に出かけた。行った先は日本食レストラン「和(かず)」。僕に気を使ってくれたのか、光栄に思う。。

 寿司とか味噌汁が出るが、特に感激はない。むしろプリンス・ルパートで食べた Black Cod や、この後中華料理屋で食べた Rock Cod の方が遥かに感激だった。ビール、ワイン、酒を飲む。

 食事の終わる頃、言葉の不自由な僕を助けて無事に航海を全うさせてくれたことについて、みんなにお礼を述べた。誰かが、いつかの夜、海で歌っていた歌を歌ってくれと言う。ダンチョネ節を歌ったのを聞いていたらしい。即席で詞を英訳して説明してから歌った。

Oh Seagull, did'nt you see a girl crying on that island?

When I left the island, she's crying.

Don't leave me. I love you . I miss you so much

Her cry still echoes in my ear and in my heart.

Oh Seagull, did'nt you see a girl crying on that island?

ティムがお返しにお祖母さんに習ったというアイルランド民謡を歌ってくれた。


左からスコット テイム リッチ ジム リチャード シェアリー カズ ビト マット

 

15日目(9/6)解散

 快晴です。起きて「プリンス・オブ・ウエールズ」に行きます。実はこれは船着き桟橋の横にあるバーで、その裏手にトイレ、シャワー、コインランドリーがあるのです。港の施設として整備されています。シャワーを浴びていて、なんだか公園に野宿する浮浪者の心境が判る気持ちがしました。

 朝食はシリアルとソーセージ。勝手に出して食べます。

 特に解散の儀式はなく、それぞれの都合で出て行きます。取りあえず荷物は艇において市内見物に出ました。マリタイム・ミュージアムに入ったら、なんと8人のクルーのうち5人とそこで会いました。あまり大きなミュージアムではないのですが、キャプテン・クックの部屋があります。彼はここに足跡を残し、そしてアラスカ、アリューシャン、極東に向かったのです。

 艇に戻ってコーヒーを飲み、こうして15日間のクルーズは終わりました。

 

乗船資格

 このクルーズに参加出来る資格を書いておきます。

1、操船技術

  参加にはヨット経験が前提になっています。今回の参加者も全員充分な経験者でした。このクルーズは彼らにとってもアドベンチャーなのです。

2、身辺雑事を処すだけの英会話能力

  身を処した上に、さらに操船に加わらなければいけないのですが。

3、何でも食べる訓練

  好き嫌いを言う人には参加資格はありません。

4、不衛生に耐える覚悟

  食器の洗いも不十分です。毎日の洗面も不自由です。シャワーも不自由。洗濯も出来ない。寝床は湿気てくる。船につきものの不衛生に耐えなければなりません。

5、掃除をする

  自分の生活圏は自分で整理・整頓・清掃しないと、誰もやってくれる人はいません。

 これが出来なければ船に乗れないということではありません。もっと初心者向けの、もっと短期間の、お客さん扱いしてくれるヨットスクールはいくらでもあります。クルードチャーターなら、それこそどんな我侭でも聞いてくれるでしょう。
 ここに書いたのはアラスカ・イーグルのアドベンチャークルーズへの乗船資格です。  ■■■

 

カズの評価

 ヨット操作に関しては、基本は判っていると評価されたと思います。全て判っている、だけど瞬間に反応出来ない。イーブンにパートを受け持ちましたが、即座の意志疎通を必要とする状況では遠慮しました。ヨットに関する知識、理論は、日本との違いは感じませんでした。

 年令のハンデは特に感じませんでした。

 言葉はまあまあというところでしょうか。ゆっくり話してくれる人、斟酌しない人、いろいろでした。彼らの誰もが日本語に関心を持っています。日本人の誰もがフランス語や中国語が出来たらいいなと潜在的に思っている程度に。だから僕の片言の英語もも積極的に評価してくれます。どうやって英語を覚えたか、と何人もから聞かれました。ラジオの英会話講座を聞いてと答えると、どこか宙を見て自分の日本語習得を考えているようでした。

 ジムに「カズは日本人としては大きな方だろう」と聞かれました。「平均より上の程度だ(176センチ)。今の若者はもっと大きい。」と答えましたが、思えばクルーのうちジム、スコット、ジョン、パムは僕より低いのでした。ただし胸の厚みや腕の太さはとても太刀打ち出来ません。

 星を見ている時、マットに「カズは brave だ。」と言われました。彼らにとっても冒険であるこのクルーズに、一人遠くから参加したことを評価してくれたようです。

 ビトには「 I admire you. 」と言われました。自分にはとても日本まで出かけてクルージングに参加するする能力も勇気もない。 I admire you.

 シェアリーは、最後の会食で僕がお礼の言葉を述べた時、「カズは great ambassador だ。」と言ってくれました。最高の褒辞です。もって瞑すべし、ですか。 ■■■                         

-完-

 

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