森繁久弥のこと

2009・11・11

 

森繁久弥が亡くなった。
大きな役者だった。

TVでいろんな人が思い出を語り、業績を偲んでいるが、彼と海との関わりが全然出て来ないのが淋しい。

これから書くことは私のうろ覚えの記憶なので間違いもあると思うが、書いておきたい。

森繁が最初に船を持ったのは「メイキッス号」である。1959年に石原慎太郎に紹介された「天山」という35フィートのヨットが気に入って譲り受けたものという。
そして1964年に渡辺修治設計により73フィートの鋼鉄製ケッチ「ふじやま丸」を建造した。
これがいかに大変なものだったか。例えば船舶法、船員法などにより船であり続けるためには専任の船長、機関長が常時必要なのであった。
台風で陸に乗り揚げる事故もあった。
このあたり「アッパさん船長」(現在中公新書にあり)に書いてあったと思うのだが、三河みとマリーナに寄贈してしまって手元にない。

病は嵩じて「ふじやま丸」を係留していた三浦半島佐島にマリーナを作ってしまった。

あれだけ規制の厳しい時代に個人でマリーナを作ったのである。苦労や思うべし。長男の森繁泉が運営にあたった。
しかしさすがに持ちきれず、日産が肩代わりした。現在の日産・佐島マリーナである。


私が出光の社員としてマリーナ建設にかかった頃(1990年前後)、日本マリーナビーチ協会の専務理事をしていた森繁泉さんに大変お世話になった。
おかげで随分海の世界の方たちと知り合うことが出来た。
ちょうどその頃「メイキッスV世」(イタリア製57フィートボート)が東京湾マリーナにあり、私の「ウインディ・ホリデイU号」もそこにあった。

1991年、森繁久弥は「メイキッスV世」で日本一週の航海に出た。泉さんの運転である。
これが最後の海行きではなかったか。
「海よ友よ−メイキッス・日本一周航海記」が出ている。

ご冥福を祈ります

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