九州西岸クルージング報告
050527−050610

∞∞∞05・04・06∞∞∞∞

友を送ってきた。

実はいつも一緒に乗せてもらっているヨット≪玄象≫(33フィート・ワンオフ艇)が日本一周の航海に出る。
1年前から誘われていたのだが、結局同行しなかった。出来なかった。
 
年令を考えてしまう。
乗るのは2人だけだ。70歳になって、何ヶ月も、果たして迷惑かけずに体力が保つか。
 
友は9歳年下である。ちょうど彼と同年輩の同行者が現れて、2人で出ることになった。
 
私は枕崎から五島列島あたりを乗せてもらうつもりでいる。

 

∞∞∞05・05・25∞∞∞∞

突然ですが旅に出ます。

友人のヨットが西海航海に出ていて、沖縄からやっと屋久島に戻ってきました。
私は枕崎から大村湾・ハウステンボスまで乗る予定で明後日出かけます。

しばらく通信はお休みです。

∞∞∞05・06・11∞∞∞∞
 

5月27日に出発し、6月9日帰着しました。

枕崎から甑島列島平良港−牛深−野母−長崎−ハウステンボス−佐世保−平戸と乗ってきました。

ヨットは下田を出て沖縄から宮古、石垣、与那国と回ってきたのですが、私は楽になってからのいいとこ乗りで、また早々と下りてしまって、まことに申し訳ないことです。今頃は関門海峡の潮待ちをしているでしょう。



∞∞∞枕崎・甑島・野母崎∞∞∞∞


枕崎から甑島列島の中甑島平良港に向かった。



何もない漁港であった。
風呂も飯屋もない。
近くに隠居漁師の小舟がいたので聞くと、上甑島まで行くとあるという。その距離17キロ。
「これを使えや。」と軽自動車を貸してくれた。



上甑島まで島を2つ渡るのであった。
橋がかかっている。
その橋の豪華さたるやレインボウブリッジもベイブリッジも顔色ないほどのものであった。
そして風呂に着いたらそれは7階建てのビルであった。
宴会場もある、宿泊施設もある、風呂もある。
看板には「甑島交流センター」とあった。



そのあと野母崎に入った時のことである。
どこに着けようかと探していると、小舟の漁師が「そこへ」と港正面にある浮桟橋(ポンツーン)を示した。
何ということか!普通なら流しているだけで大声で追っ払われる場所である。
漁船が少なくなって廃業した漁港かと納得してそこに着けた。


風呂は岬の突端に「野母崎・海の健康村」という施設があってそこへ行った。
7階ではないが立派な3階建てで、風呂と宿泊施設があった。
その風呂からかの「軍艦島」が見えるのであった。全島かっての炭鉱の島で、廃墟となった鉱員の集合住宅がぎっしりと立ち並ぶさまはまるで軍艦のように見えるのである。
あそこの住民にも多くの希望があり、ロマンスがあり、哀歓があったのであろう。



いま各地にあるこれらセンターは軍艦島の住民の汗の結晶なのか、それともリストラに怯える現代のサラリーマンの膏血なのかと思うのであった。
 


なお野母崎の漁港は廃港になったのではなかった。すぐ隣の浦にまったく新しい港を作ってそこに移転したのであった。
われわれが入ったのは古いほうの港だったのだ。
それにしても快適な風呂に入り、快適な施設に係留しながら、不公正への加担という不快感が消えなかった。

伊豆諸島における過剰な港湾施設についてはことあるごとに不服を述べてきたが、九州においても事態は同じなのであった。
このようなリターンのない投資を続けてきたから日本の経済はおかしくなった。



∞∞∞ヨットでの生活∞∞∞∞

日本沿岸をヨットでクルージングする場合の生活パターンを書きます。ただし我々の場合です。

南太平洋とか世界一周とか大洋を航海する場合は連日海の上で、寝るときはウインドベーン(風を受けて舵を一定に保つ装置)に任せるだけですが、日本沿岸は危険がいっぱいでとても夜航は出来ません。石廊崎から熊野灘まで一気に走るような時だけ夜走りますが、必ずワッチをたてます(誰かが起きていて見張りをすること)。でもこんな走り方は本当は面白くありません。
毎日どこかの港に入って、風呂に入って、飯を食って、がクルージングの醍醐味です。


クルージングの場合のメンバーは2人か3人がいいです。4人になると鬱陶しい。
よほど大きな艇になれば知りませんが、我々の乗る32−38フィートくらいの艇だとこんなものです。

毎日の航海は明るくなったら出て、明るいうちに港に入るのが原則です。初めての港に暗くなって入るのは危険です。
ですから今頃なら5時に出航します。
そして15時まえに目的地に入って、20時には寝ます。

ヨットの時速は艇によって多少違いますが機帆走(セールとエンジンの併用)でだいたい6ノット(1時間に1海里1852メートル進むのを1ノットという)です。
ですから当日の目的港までの距離が50マイル(海里)だとすると、50÷6で8時間20分の所要時間になります。5時に出れば13時20分に着く予定になります。しかし海上では何が起きるか判りません。6ノットといっても逆風に吹かれれば3.5ノットに落ちますし、順風なら8ノット出るかも判りません。
もし3.5ノットなら50÷3.5は14時間半で、5時に出て19時半、夏でぎりぎり明るい時間です。こんな場合は朝3時か4時に出る時もあります。

朝食はだいたいパンです。《玄象》では菓子パンですが、私の艇では食パンにレタスやハムを挟んで食べます。ミルク、チーズがあります。湯を沸かしてコーヒーか紅茶を飲みます。
33フィート以上の艇ならたいてい電動の冷蔵庫があります。湯を沸かすのは日本ではプロパンが多いです。(海外ではプロパンは危険だと不評ですが、日本でプロパンで爆発したヨットのことは聞いたことがありません。)

昼はパンかラーメンです。バナナを積んだりもします。ビールは各自好きなときに飲みます。

夕食は飯屋に出かけます。これが最大の楽しみです。御前崎ならどこ、大王崎ならどこ、尾鷲なら、勝浦ならと、旨い店が決まっています。
何もない港なら、艇で鍋で飯を炊きます。失敗することはありません。おかずは缶詰か、材料があればごった煮です。魚を買って刺身にすることもあります。

トイレは水洗トイレがあります。

電気はメインエンジンで12ボルトの発電をしていますが、コンバーターで100ボルト電源も使えます。デジカメや携帯の充電は問題ありません。《玄象》は今航海からバッテリー増強して電子レンジが使えるようにしました。

我々の艇は釣りはやりません。

ヨットではよほど都会の近くでないとTVは映りません。ラジオを聞いて早く寝ます。寝具は冬は寝袋を持ち込みますが、今頃は毛布1枚です。
 

∞∞∞焼酎のこと∞∞∞∞


《玄象》が波照間(日本最南端の島)に行った時、そこの泡盛「泡波」を買ってきた。4合瓶で1000円だったそうだ。「石垣島に行けば5000円だよ。」と言われたという。沖縄まで行った2人とも酒飲みではないので記念品のつもりである。
帰宅後調べたら、楽天で10000円で売っていた。

甑島で漁師に車を借りた。「お礼には焼酎が良かろう。「百合」が良かろう。」と言われて2軒の酒屋に入ったが「百合」がない。仕方なく「薩摩美人」にした。
夕飯の店で焼酎のお湯割りを頼んだら滅法旨い。これが「百合」だった。
そこで聞いた3軒目の酒屋で「百合」の4合瓶を1050円で買った(1升瓶だと1785円)。甑島で作っていて、島外に出すほど生産量がないのだという。


焼酎の中には内地で1升5万円もするのがあるそうだ。
2級酒はいくら、1級酒はいくら、特級酒はいくら、焼酎はいくらと値段の決まっている文化に育った我々には、5万円の焼酎が意味するところが判らない。
それが本当の価値なのか、バブルなのか。

1630年代のオランダのチューリップ・バブル、江戸寛政年代(1789〜)の園芸バブルとどう違うのか。
当時ハナタチバナ1鉢に2000両の値段がついたという。
昭和40年頃5万円したウイスキーがいま2800円で売られている。


追記
九州にいる間、店屋ではもっぱら焼酎のお湯割を注文したが、いま思うとどこで飲んでも温度が同じだった。そしてそれが旨かった。お湯割の最適温度が決まっているようなのだ。
これは大変な文化だと思う。
 

∞∞∞長崎入港∞∞∞∞


長崎入港はやはりハイライトであった。
数百年、あるいは千数百年の昔から日本の玄関口であり、多くの外国船が目指した港である。今彼らと同じようにセールを上げて入ってゆく。
クルー一同感激の入港であった。


長崎港の奥に出島マリーナがあることは情報を得ていたが、さてどこにあるのか。
ケータイで連絡しながら入ってゆく。
「女神大橋をくぐりなさい」「橙色の丸い看板を目指しなさい」どんどん港の中心に向かう。
そして着いたところは!
東京港なら晴海ふ頭か浜離宮の桟橋か。横浜港なら山下公園の岸壁か。

かってのオランダ船が着けた出島の岸壁に、ヨットのためのゲストバースがあるのだった!
昔の出島からは100メートルほど埋め立ててあるし、埠頭は遊歩道になって「出島ワーフ」なるレストラン街が出来ているが、それでも出島岸壁だ!
これまで外国で港のど真ん中のバースにヨットを係留して尻のこそばゆい思いをしたことはあるが、日本でヨットがこんな待遇を受けるとは予想していなかった!
感激した。



長い間虐げられてきたヨット乗りはこんなことで感動するのだ。
大きな港では法律で追っ払われ、漁港では漁師に怒鳴られて辛い思いをしてきた我々が、今日は天下晴れて長崎港に迎えられた。
時代が変わったというより、長崎の歴史と心意気を感じた。

長崎には丸3日滞在した。係留料は1泊2100円であった。(関東界隈では8000−15000円である)


追記
岸壁の上に設置された救命浮環にご注目あれ。普通こういうパブリックな場所では危険防止として無骨なフェンスを作らされるのだ。しかしここでは落水者を見たら投げるライフリングが用意されているのであった。これが港だよなあ。



∞∞∞長崎の街∞∞∞∞

長崎の街を3日間歩いた。
最初長崎市内観光バス6時間コースに3人一緒に乗り、あとは各自自由行動であった。


バスのコースは、出島、グラバー園、孔子廟、平和公園、原爆資料館といったところである。
出島は内容たっぷりでもっと時間が欲しかった。
グラバー園は3−40年昔に見たグラバー邸とはすっかり変わっている。いろいろ建物を移設・建設しエスカレーターを設置して<邸>から<園>に、大観光施設になっている。
切支丹と原爆は苦手なので詳しく見るのはサボった。
永井隆の如己堂でバスガイドが「長崎の鐘」を歌ったのには泣かされた。作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、歌:藤山一郎だという。すごい顔ぶれだ。昭和24年の歌である。

長崎ではちゃんぽん、皿うどん、しっぽく、スペイン料理などいろいろ食べた。
街のどこでもそうなのかどうか判らないが出島ワーフでは注文しないつき出しを出して2−300円を徴収する。3軒目ではアルコールもとらないのに勘定に入っている。レシートを要求したら手書きで明細のない総額の領収書を出した。頭にきて文句を言ったら300円返してくれた。この細かさは老人・年金生活者の悲哀であ ろう。

長崎訪問は16年ぶりであった。前回は出光長崎油槽所がマリーナとして適地かどうかを見るために来たのだった。
多分否定的見解を出したと思う。
帰りに建設中であったハウステンボスを見学した。当時、資金のほとんどを出した興銀、オランダ村以来神近氏に密着して工事の主体を獲得した日本国土開発は先見の明をうたわれたものだが、両社ともすでに存在しない。

半日を映画鑑賞に費やした。「ザ・インタープリーター」である。主人公は国連のアフリカ少数民族言語の女性通訳。ニコール・キッドマンが美しい。微かにそばかすが見える(?)のも、いかにもオーストラリア人らしく好ましい。


長崎大丸で平松礼二の展覧会を覗いた。鮮やかな色彩の日本画で、モネの睡蓮の池を描く。

長崎滞在中の風呂は出島から徒歩10分の「丸金温泉」であった。名前は素晴らしいが中味はすっかり旧式の銭湯である。一緒になった外人のセーラーたちもみんな喜んでここに通った。

長崎の港の中心はなんといっても三菱の造船所である。ドックは一杯で活況を呈していた。造船所の動向は街中から見えるのである。
それにしても目の前で燃えるダイヤモンド・プリンセスの火災騒ぎは長崎市民にとってどんなにショックだったか。久しぶりに契約をとった豪華客船だったというではないか。その気持ちを思うと胸が痛むのである。
実はわが夫婦の結婚の媒酌人は長崎造船所所長も務めた四神会先輩の森米次郎さんである。佐世保重工社長当時に出光の日章丸を建造してもらったご縁もあって仲人をお願いした。森さんが生きていらしたらどんなに悲しんだだろうと思うのであった。


∞∞∞炭鉱群∞∞∞∞

長崎から大村湾に向かうには北上して佐世保湾に入り、急流の針尾の瀬戸を抜けて大村湾に入る。

佐世保湾の手前に大島、その外側に崎戸島があり当初崎戸島を外回りする予定だったが九州本土と大島の間が抜けられることが判り、長崎港を出て岸沿いに北上した。
正面に松島が見えるがこの内側は通れない。進んで行くうちに左手に小さな島が現れた。チャートによれば池島である。
池島になにやら建物が見える。コンクリートのアパートである。それも何棟も並んでいる。
あれは何だろう?まさかここから本土に通勤してるわけもないだろう。
いよいよ池島を過ぎる時になってあっと気が付いた。池島炭鉱だ!その跡地だ。おう、おう、これが池島炭鉱か!それにしてもこんなに小さな島だったのか!
とすると正面松島は松島炭鉱か!これが松島炭鉱か!

一時代を築いた炭鉱はこんな形で存在していたのだった。
私はその石炭からユーザーを奪った石油業界の、しかもその営業の最先端にいた。
昭和36年から40年頃のわづか5、6年で鉄鋼業界、紙パ業界、セメント業界など大工場のエネルギーを根こそぎ石油に転換したのだった。
その間石炭業界の人たちと触れ合う機会も多く、彼らに対するシンパシーは常人以上にあったとは思うが、こういう島で暮らしていた石炭人に思いを致したことはなかった。滅び行く石炭産出の現場を想像したことはなかった。
無知の傲慢であった。

それにしても松島、池島とチャートに見ながら、松島炭鉱、池島炭鉱がすぐに思い浮かばなかったのはまさに老人性の反応の鈍さである。
老人の悲哀を感じた。

老人の悲哀といえば、近年何を食べても最初の一口で旨いか不味いかが判ってしまう。これは不幸である。若いうちは何を食べても旨かったのだ。

若い男女がいちゃいちゃしているのを見ると昔は不快に感じたものである。しかし最近は違う。いいぞいいぞ、早くくっついて、早く子供を産んでくれ、と思うようになった。
これも老人の悲哀である。
 

∞∞∞針尾瀬戸∞∞∞∞

大村湾は有明海の半分ほどもある大きな湾であるが、北方の2つの水道(早岐、針尾)で小さな佐世保湾に繋がっているのみであり、船の通れるのは針尾の瀬戸だけである。ほとんど湖と言っていい。

その大きな湾の海水が潮の干満で水道を出入りするのだから大変な潮流になる。大潮には10ノットにもなる。
我々も潮止まりを狙って針尾瀬戸に入ったのだが、情報不足・判断ミスでまだ下流が4ノットも残っている状態で入ってしまった。
おかげで多少スリリングな思いをした。

ハウステンボスのマリーナで聞いたら、大村湾の潮位差は大潮で90センチ、我々入港当日は48センチだったという。
有明海の潮位差はわが国最大で、大潮時湾央部で4M、湾奥部で最大7Mに達することがあるという。
それに比べて大村湾の潮位差が小さいのは、狭い水道から海水が出入りし切れないのであろう。

なお早岐、針尾の両水道の間に針尾島があり、3本の大きな塔が立っている。コンクリート製で高さは37メートル。無線塔である。太平洋戦争開戦時、連合艦隊司令長官から全艦艇に向けて「ニイタカヤマノボレ」の暗号が発信された塔だという。



∞∞∞∞∞∞∞


《玄象》がいよいよハウステンボスマリーナに入った。200艇近くを収容する大マリーナである。
8分くらい入っているが契約艇は半分程度か。
私も建設中に来ただけで完成後は初めてであり、みなも初めての訪問である。

着桟の指示をあおぎ、マリーナ管理事務所に行った。
係留料は1泊2400円。入園料は1人3200円のところ係留料を払っているからと2000円にまけてくれた。パスカード1600円(1日施設使用料)は別途である。
結局丸3日滞在した。



遊園地の内容を詳しく書くつもりはないが、花の植栽を重点に報告しよう。
今回紹介するのはエントランス付近の花壇である。
正門から入ると( 我々は裏から入ったのだが )、まず広い芝生に幾つもの花壇が作られている。色別花壇に作られている。
その中央に位置するのがブルー&ホワイト・ガーデンである。写真をご覧あれ。



嬉しかったのはここに植えられていた花12種のすべての名前を記録出来たことである。
12種開花していたということでもある。
バラ、ルピナス、ブルーデージー、ブルーサルビア、セラスチーム、イソトマ、ベゴニア、プロフュージョン、マーガレット、デルフィニューム、ペチュニア、アゲラタム


∞∞∞花の植栽∞∞∞∞

ハウステンボスの花壇の写真を撮ってきましたが、メール添付には多すぎるので、ここで見てください。
http://www.i-younet.ne.jp/~opgarden/HUISTENBOSCH-FlowerBeds.htm

花だけで人が呼べるのかどうか、私には判りません。
ローズガーデンを4、5倍に拡げるとか、巨大温室を作るとか、したいところですが、今のハウステンボスにそれだけの余裕はないのでしょうね。

でもよくやっています。
 

∞∞∞佐世保・九十九島・平戸∞∞∞∞


そろそろリポートを終わらせましょう。

佐世保でも観光バスに乗りました。
「海上自衛隊・佐世保資料館」に行きました。昔の将校クラブですね。
30分しか時間がなかったけど、半日いても足りなかったところです。
米軍基地の占める大きさ、佐世保重工にまつわるいろんな思い出、観光バスはいいです。

イージス艦「金剛」が着桟していたが、金剛は海上自衛隊の一方の旗艦みたいな存在のようです。
ネットでは戦艦大和と金剛とどちらが強い?なんて議論がされています。イージス艦の意味は判りませんが。



佐世保は私が引揚げてきて上陸した土地でもあります。

九十九島も観光船で巡りました。この船賃1000円は安い。

平戸はいい港です。
長崎より先に開港地になったのも判ります。
領主の松浦氏は秀吉の朝鮮遠征に参戦して功をたて所領を増やした。関が原の役には日和った。
徳川になってなんとか所領安堵したが、その朱印状の宛先は<豊臣鎮信殿>となっていた。現物が平戸城に展示してあります。
この時代の徳川のスタッフの才知に感服します。
驚愕した松浦氏は建てたばかりだった平戸城を自ら破却して恭順の意を表します。
再建は100年後になります。
大きな城ではないが、海辺の石段の第1段から天守閣まで昔の城なのが嬉しい。


天草から平戸まで、九州西岸一帯は切支丹の影の色濃いところです。
私はキリスト教にはまったくシンパシーを感じないので、過剰な切支丹には辟易しました。

私は平戸までで艇を下りました。
《玄象》は今頃加太の瀬戸あたりでしょう。

今回のクルーズで旨かったもの
・枕崎の駅前飯屋のかつお刺身定食
・野母崎の飯屋のちゃんぽん
・長崎出島ワーフのざっこえびとアーテイチョークのトルテイーヤ
・ハウステンボス−ヌエヴァ・カタルーニャのパエリア
・ハウステンボス−ホテル・デンバーグの小エビのカレーライス
・平戸のじげもん鍋

追記
そうそう、書き落とした。ハウステンボスで観光丸に乗った時など75%が台湾人、香港人、韓国人でした。
夜のミニ花火大会の見物など80%以上の感じ。終わるとこの人たちが列をなして構内のホテルに向かいます。

3人揃って記念撮影

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