稲毛マリーンのこと

 

先日「ノラ21」の雑誌記事コピーを依頼された。79年5月号の記事である。ノラ21の名前で稲毛マリーンを思い出してしまった。いま稲毛マリーンを覚えている人がどれほど居るだろうか。もう随分な昔話になってしまった。

1971年のことだ。当時西千葉に住んでいた僕は、稲毛の海岸の道端でヨットを自作しているマリンショップを見掛けた。まだ今のような埋立ての進んでいなかった街道筋である。へえこんなところに、と思って寄ったのが稲毛マリーンだった。山田一也君はまだ千葉大学工学部の学生だった。学生で店を出すのだからよほどヨットに打ち込んでいたのだろうし、親もあの辺の地主だったのだろう。
すぐに当時新鋭艇だったリンフォース工業のブルーウオーター21を発注し、12月に進水式を行った。僕の初めてのクルーザー購入であった。忘れもしない140万円だった。

彼の世話で最初霞ヶ浦の京成マリーナに置き、翌年には館山の自衛隊岸壁に移した。一緒によく狭い21フィート艇に泊まったものだ。
ほどなく彼は館山近くに土地を見付け造船を始めた。
そして横山晃氏の知遇を得て建造したのがノラシリーズだった。どれほど売れたのかは知らないが、それなりの信頼を得た艇だった。しかし石油ショック後のマリン退潮で苦労したと思う。

ノラを売り出して数年後、彼が交通事故で死んだと聞いた。いい男は早く死ぬ。(2002・10・28)

 

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