88年5月 初島にて 「ウィンデイホリデイ」号と私
初島は伊東から5マイル=1時間でお気に入りの遊び場だった。
連絡船発着の港の裏側に、風が悪い場合の避難港があった。ケーソンの岸壁が1本。常駐する漁船もない。
着けて、泳いで、買ってきたカツオを捌いて、食べて、飲んで、寝る。他の艇と一緒になることは滅多にない。
自分たちだけの隠し砦だった。
ある時、珍しく人気(ひとけ)があった。
岸の網干し場の横に漁師小屋があったのだが、そこに人がいる。女性ばかりだ。7−8人。子供も数人いるようだ。
コンクリートのスロープ一杯に赤い天草が干されている。
夕餉の支度か白く細い煙が上がっている。コンロは七輪か。まさに浦の苫屋の風景である。30年も50年もタイムスリップした感覚だった。
近寄ってみたら海女だった。飛び交う言葉は朝鮮語。韓国の海女だった。
後で聞くと宇佐美の事業家が天草の権利を落札し、韓国から海女を呼び寄せて収穫していたのだという。
韓国が奇跡の成長を遂げる直前の時代だ。
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〜〜〜初島リゾート施設とフィッシャリーナ〜〜〜〜〜〜〜〜〜?
初島は田んぼも無く貧しい島である。長らく島内の戸数を限定し、跡取り以外は島を出ることを厳しく守ってきた。
だから都会の風俗が入ることが少なかった。
80年代の終わり頃、島の人に信頼の厚い某氏が島の振興にリゾート計画を立ち上げた。
それまで頑なに外部資本の入島を拒んでいた島民も、その人ならと受入れた。
東京電力やソニーの名前を看板に押し立てたその計画は、立派なホテルを作り上げた。
しかし完成を前にしてバブルは崩壊し、1口5000万円の会員権は売れず、倒産し?、結局現在はExivというチェーンになっている。
島の人の心の痛みは大きかろう。
さらに遅れて避難港の横にフィッシャリーナが建設された。どこからどういう政治力学が働いたものか。国の資金が60億も投入されたという。
すべて自前の金で三河みとマリーナを作った私は大いに憤慨したものだ。
いま初島フィッシャリーナを利用する者はいない。
全国津津浦々で繰り返されたこういう無駄な投資が日本を貧乏にした。
私は島の関係者ではないし、島を研究したこともない。ここに書いたのは自分の体験と新聞記事と巷の噂である。
2008/7 初島フィッシャリーナでLM35をサーベイする黒潮丸
〜〜〜3.ニール号物語〜〜〜〜〜〜〜〜〜
マイボートを伊東に置いていた当時、私の勤務地は丸の内帝劇ビルであった。
私はヨット遊びに社内の同僚や後輩を誘うことはなかった。彼らの出世に障ることを慮ったからである。
ヨット仲間はもっぱら当時主宰していた「PCオーシャンヨットクラブ」や舵誌の「仲間募集」欄で募った。
そんな中に稲取のFさんが居た。
彼の前職はプロの潜水夫だった。仕事の現場があまりに危険なので辞めたのだという。当時は稲取のホテルの支配人をしていた。
さらに聞けば彼は日比谷高校出身だという。奥さんは浅草生れ浅草育ちの江戸っ子だった。屈折した人生だとも云える。
彼の家を訪ねたことがあったが高台で眼下に白波の寄せる浜を見下ろす、海の男の理想の家であった。
その時中学生くらいの女の子が、「お父さんもお母さんも狡い。2人はすべてを知ってここに来たのに、私はここしか知らない。」と零した。
彼女は鋭い。今どうしているか。
彼は現在東伊豆町会議員として人並み以上の活躍をしている。 いい友人を持った。
「ウィンデイホリデイ」号上で雑談をしている時、ふとFさんが<沈船を知っている>話になった。
潜水夫の仕事をしている時、南伊豆妻良港の出口で沈船を見付けたのだという。場所もきっちりと山立てをして記録してあるという。
この話に食い付き、夢中になったのがYさんである。沈船引揚げなんて夢ではないか!
実はこの沈船は無名の宝船ではなかった。嵐で沈んだフランス船ニール号として地元では知られた存在で、地元の海蔵寺に招魂碑があるのだった。
1874年ウイーン万博に出展後、展示物や最新の織機などの宝物を積んでマルセーユを出帆したニール号は横浜に向かう途中石廊崎沖で嵐に遇い、妻良沖で難破したのだった。
Yさんはお構いなしである。
国会図書館に行き、国立公文書館に行きと、ニール号に関するあらゆる情報を集め始めた。
そしてとにかく現場に行きたいと言い出した。
ここでちょっとYさんの話をしよう。Yさんは舵誌の募集記事をみてやって来た。
ある日曜日の朝、約束の時間より1時間も早く来て伊東漁港の堤防で待っていた。あのちょっとシャイで飄々とした姿を今も忘れられない。
彼が乗ってきたのはアマゾンとかいう1500CCのバイクだった。ヨット経験無しのバイク乗りだった。
そのバイクで年に一度は北海道一周に出る。ある年大学生の息子と一緒に出掛けたが息子はどうしても従いてゆけず、途中でパーティを解いたという。
彼は都内のタクシーの運転手で、当時Gキャブに居たがどこへ行ってもその営業所でトップの稼ぎ上げるという。勘がいいのだ。
ヨットのことも実に注意深く我々の動きを観察し、2度と聞くことはなかった。私が間違ったやり方をしていると間違ったまま覚えられ、赤面したものだ。
たちまちにしてボースンの位置を獲得した。
私は大学でも出光でも、国会図書館や公文書館に自分の調べものに行った人を聞いたことが無い。
彼の切迫衝動は抑え難く、88年9月遂に現地へ行って潜ることになった。
この行動のリーダーはFさんである。「ウィンデイホリデイ」のクルー4名で出掛けた。私はこの時は参加していない。
Fさんは思慮深く、現地の宿に泊まり、現地の漁船をチャーターして現場に向かった。いずれ地元の協力を必要とすると考えたのであろう。
そして見付けた。
Fさんの見立て通り、水深35メーターの海底に殆ど砂に埋もれてそれはあった。
Fさんと海底の写真
Fさんのスケッチ 海底に殆ど埋もれたニール号
(続く)
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実際にニール号の姿を見てYさんの幻想はますます燃え盛った。
彼の頭の中は<沈船→宝船→引揚げ→億万長者>の夢で一杯だったのだろう。
私の考えは違った。
・文化財扱いで引き揚げるには数十億も掛かるだろう。
・役所の許可、地元の同意、関係者の調整、大変なエネルギーが必要だ。
・実行委員会の頭には県知事くらい引っ張り出さないと、
・まず役所まわりだけだって膨大な時間と経費が掛かる。
・それで得るものは決して億万円の儲けではない。我々は「発見者」とも云えないのだ。
・私はやらないよ。
Fさんも同じような考えだった。
Yさんは益々燃える。
町長、漁業組合長、青年部会長、仕事を休んで1人で飛び回るがどこも同調してくれない。
地元としてはこういう手合いは時々現れるので慣れているのかもしれない。
金主でもない風来坊など相手にしないのだろう。
ところがどういう伝手を頼ったのかYさんは遂にTVに食い付いた。日本TVが取材に来ることになった!
1989年1月日本TVの取材チームが来て潜り、ニール号を確認した。
勿論現場のリーダーはFさんである。
Yさんの執念の凱歌であった。
?
しかしここまでであった。
話は発展しなかった。
1989年5月2〜6日、「ウィンデイホリデイ」号で現場に赴いた。
1989/05/03 妻良港外の写真である。中央赤ジャケットがYさん。右が私。
この悲壮なる顔を見よ。
こうしてニール号の夢は次第に凋んでいった。
Yさんの失意は甚だしく、遂に日本脱出に至る。
その話はまた別にしよう。
―完―