武田陽信と勅使河原霞と蓮見清一

 

3人の名前をタイトルにもってきました。

武田陽信は日本で初めてシドニー・ホバートのヨットレースに参戦した男です。そして草月流家元・勅使河原蒼風の娘・霞を掻っ攫った男です。

蓮見清一は今オマケ付雑誌で一世を風靡している宝島社の社長です。そして60才にして一念発起、「テヴィス・カップ」なる過酷な乗馬レースに出場した男です。

この3人がここに並んだのはたまたま私の勝手で、過去に幾つかの記事に分けて書いたことを、読み返してみてなかなか面白い(と思う)ので一編にまとめました。

昔話ですが、お読み頂ければ幸いです。

2011・3 森下一義

 

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「アラビアンホースに乗って」(蓮見明美著、洋泉社、04/6刊)という本を読んだ。

60才を目前にした、それまで馬に触ったことも乗ったこともない男がたまたま米国の長距離耐久乗馬レースをTVで見て、「わが人生で為すべきことはこれだ!」と一念発起し、一から乗馬の訓練を始め、あらゆる艱難を克服してその翌年に米国で最も過酷なエンデュランス・ライドと言われる「テヴィス・カップ・ライド」を完走した物語である。ちなみにこの時の完走率は49%だったという。

耐久馬レースはエンデュランス・ライドと呼ばれ、スピードよりも、人も馬も障害なく完走することを第一義とする。
「テヴィス・カップ・ライド」の正式名称は「ウエスタン・ステイツ・ワンハンドレッド・マイルズ・ワンデイ・ライド」であり、その名の通りシエラネバダ山中の100マイルを24時間以内に走り切らねばならない。人か馬かヘリコプターしか近寄れない峻険な山道を頑健で俊敏なアラビアンホースに乗って文字通り踏破するのだ。標高1500−2700メーターの土地を上り合計で5000メートル、下り合計で7000メートルを走る。夜は漆黒の闇である。
詳細はここをご覧あれ。 
アラビアン・ホース・ランチ

スタート地点に立つことすら難しいと言われるこのライドに挑戦し、見事完走した男は蓮見清一という。出版社宝島社の社長である。
そしてライドそのもの以外はすべて行を共にし、このリポートをまとめたのが蓮見清一の妻蓮見明美であった。

実はこの本、某氏から恵送を受けたのだが私が読むより先に妻が読み、続けて私が読んだらすぐに自分の友達に鳴り物入りで貸してしまった。それほど面白かったのだ。
おかげで私が感想を書こうとしている今、原典が手許にない。

 

私は読後の感想を書くにあたり、この物語を何に比すべきかを考えた。
私が知るのはヨットの世界である。「テヴィス・カップ」に比すべきヨットレースがあるだろうか?
この耐久レースは競馬場のパドックを走るのでも馬場馬術でもない。原野を走り抜ける。
となればインショア・レースではあり得ない。オフショア・レースである。
国内のレースでオフショア・レースは何か?鳥羽パールの名が上がるかもしれないが、これは沿岸コースで本格的にオフショアとは言い難い。
八丈とか小笠原、沖縄レースということになろうが、実はどのレースも参加艇不足でこのところ成立していない。
それと、実施海域の条件がそれほど厳しいというものではない。テヴィス・カップのコースは厳しさを求めて設定されている。
勿論ヨットレースは気象条件によってどれほどにも厳しくなるが、コースそのものが厳しい海域とは言えない。

国外に眼を転じて、どんなレースがあるか。
アメリカズ・カップはインショア・レースである。
アラウンド・ザ・ワールドの各レースはちょっと比較にならない別物だろう。
アドミラルズのファストネット、トランスパックのアラウンド・ジ・アイランズなどの名が浮かぶが、これらも<厳しい海域>ではない。79年のファストネットの大事故は未だに記憶に生々しいが海域のせいとは言えない。

そうだ、シドニー・ホバートだ!
どんな解説にも<荒れるシドニ・ホバートレース><咆える40度線>の形容詞が先に立つ。
シドニーを出てタスマニアのホバートに至る630マイルのコースである。毎年クリスマスの日にスタートし、大晦日前にゴールする。
このレースの厳しさはヨット乗りの知るところだ。多くの場合完走率は50%という。
オーストラリア人はこのレースに生命を燃やす。

テヴィス・カップへの挑戦は、シドニー・ホバートへの挑戦に比すべきではないか?
シドニー・ホバートレースに挑んだ日本人はいるのか?
私の頭に<武田陽信>の名が浮かんだ。微かな記憶である。たしか<武田陽信>という男が参戦したはずだ。
やっと日本セーリング連盟の「JYAとNORCの歩み」のページに、ただ1行の記述を見付けた。


「1969年:シドニーホバートレースに武田陽信氏の<バーゴ>が参加」


残念ながらこれ以上調べる手がかりがない。

武田陽信とは何者か?         ―続く―

 

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昭和20年代の後半から30年代にかけての、あの華道界を包んだ熱気は何だったのだろう。
当時、日本の女性たるものすべて華道免許を求めて生け花教室に通ったのではなかったか?

 

華道免許の本山は池坊である。室町以来の華道の家元として、国内の諸流はすべて自派の末裔であるとする。
それに対し、戦後の民主化ムードの中で家元制度に反発して多くの新興いけばなが旗をあげた。その雄が勅使河原蒼風率いる草月流であった。
昭和30年当時、池坊200万、小原流100万、草月流70万と言われたが、成長率では草月流が群を抜いていた。
蒼風は「池坊は45代、小原流は3代にくらべ草月はまだ1代だ。わしの時代で追いつき、追い越してやる」と豪語した。
その活動は次第に国際化し、フランスの芸術文化勲章、レジョンドヌール勲章の受章、ニューヨーク「20世紀博・世界の彫刻家20人展」に招待出品するまでに至る。

そして東京青山に壮大な草月会館を建設し、反発したはずの家元制度の確立を進めた。

その中心に据わるべきが花が娘の勅使河原霞であった。
まだ20代になったばかり、その美貌とあわせ霞はまさに社交界の華であった。






あろうことかその霞が家を出たのである。1956年(昭31)のことである。当時として驚天動地のスキャンダルであった。
「草月を継ぐことを放棄してでも、あの人と一緒になります。」
その“あの人”が武田陽信であった。
霞24才。武田陽信34才。武田には妻と2児があった。

 

武田は海軍の情報将校を経て商社に勤務していた。
身長180センチ、空手・剣道・柔道など計6段の偉丈夫であったという。
日頃女性に囲まれた男性ばかりしか見ていなかった霞には強烈な魅力だったのだろう。
裏千家3男との縁談が進んでいた中を、霞は武田のもとに奔った。

「許さない」と怒った蒼風も、結局は折れ、のちに霞の草月への復帰を乞う。
武田は独立して繊維・雑貨の商社を起こし、草月流の品物を扱うようになり、また草月流の経理の責任者となる。
そして1969年12月、シドニー・ホバートレースに参戦したのであった。

 

1970年1月、草月会館および全国27ヶ所を突如200人の国税局査察官が襲った。
巨額の脱税疑惑である。
蒼風は霞に言ったという。「霞、お前にまで苦労をかけたね。」「いいえ、お父さま。」「・・・これで終わりか。」「そんなことをおっしゃらないで下さい。」「・・・でも芸術院会員になるのは、もうおしまいだね。」かっての前衛いけばなのリーダーがこう言ったという。


武田陽信は経理の責任者として、一切の責任は自分にあると主張したが、巨大な家元組織には武田の知らない金がいくらでもあるのであった。


このあたりの華道界に関する記述は「華日記-昭和生け花戦国史」(早坂暁-小学館文庫 89年初刊)による。幸いまだ入手可能である。名著である。
(いま調べたら残念ながら中古でしか入手出来ない 2011・3)


     

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いけばな革新の運動は戦前に発する。
「日本新興いけばな協会」の設立を目指して6人が集まった。重森三玲、藤井好文(評論家)、中山文甫(未生流)、桑原宗慶、柳本重甫、勅使河原蒼風である。1933年、重森三玲が「新興いけばな宣言」を起草する。「懐古的感情を斥ける」「形式的固定を斥ける」「道義的観念を斥ける」など家元制度からの解放を目指すものであった。この中に33才の蒼風がいた。
結局この協会は設立されずに終わった。

いけばな革新運動については労作「前衛いけばなの時代」(三頭谷鷹史-美学出版 2003年刊)に詳しい。

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先に「馬とヨットと花と」と題して、草月流勅使河原霞の夫武田陽信が<咆える40度線の荒れるシドニーホバート・ヨットレース>に日本艇として初めて参戦したことを書いた。 
しかしその時はレースの状況に関して何の情報もなかった。

本日、いろいろ所用あって痛む左腕を抱えながら上京し、時間を割いて千駄ヶ谷のスポーツ図書館に寄り、舵誌の69年70年分を跋渉していささかの情報を得た。
(まことに残念ながら私のKAZI誌保管は71年以降である)
細かくはいずれ報告するとして、とりあえずレース結果と武田陽信の写真だけを送ろう。

武田の木造34F艇<バーゴ>は1969年12月26日シドニーをスタートし、4日あまりでタスマニア島ホバートにゴールした。出艇79艇中21位であった。立派な成績である。

写真は2枚あった。
天下の草月ファン諸姉よ、これがあの天下に令名を馳せた草月流跡取り娘・勅使河原霞が「草月を捨ててでも」と奔った男武田陽信でありますぞ。彼はその時2児のある既婚者であった。
この厳つい顔。なにか勅使河原蒼風に似ると思うのだが如何?

 

     


    



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武田陽信の<Vago>が参加した1969年#25シドニー・ホバートレースに関するヨット専門誌「舵」の記事は次の4本であった。

69/11 「シドニー・ホバートレースを語る」 対談大儀見薫:大沢浩吉
  対談で大儀見氏がレースの歴史等について既に多くの知識を集め、前年米艇のクルーとしてこのレースに参加した大沢氏からレース現場の知識を得ようとしていることが判る。

69/12 「日本のクルーザー<Vago>」 武市俊
  武市氏は日本の数少ないレーシングヨットのデザイナーである。このリポートにより<Vago>が設計当初より大儀見氏をリーダーとしてシドニー・ホバートレース参加を目指して建造されたことが判る。
  武市氏はオーナー武田陽信より「日本で作り得るベストの外洋レーサーを作ってくれ」と言われたと記す。当時(現在もそうであるが)ヨット用金具備品など国産品がなく専ら輸入に頼ったが、オーナー武田氏が率先手配入手してくれたと記す。武田氏は雑貨輸入会社オーナーでもあった。個人輸入もネット通販もない時代である。
  なお武市氏は1991年ジャパン・グアムレースにおいて<タカ号>で遭難後救命ボート内で死亡した。6名が乗り移ったが佐野三治氏以外は死亡。

70/3 「シドニー→ホバート・レース」 無署名
  レースの概要に関するリポートであり、詳しい。
  79艇出場のこの国際レースにおいて21位の成績は素晴らしいと評価出来る。
  先の武田陽信氏の写真はこの記事中にあった。しかし特に<Vago>に関する記述、<Vago>からの発信はない。
  このレースの優勝艇は<Morning Cloud>、オーナー・スキッパーは英保守党党首エドワード・ヒースであった。ヒース卿は翌70年−74年の英国首相である。

70/4、5 「<バーゴ>の航海日誌」 大儀見薫
  レース艇<Vago>のスキッパーによるログ・ブックである。GPSのない時代であり、ヌーンサイト、スターサイトが懐かしい。
  乗員はスキッパー・大儀見薫、オーナー・武田陽信、武市俊、ドナルドソン中尉(気象担当)、村本、大沢、山下の7名であった。
  乗艇しているオーナー武田の言動に関する記述は全く無い。

 

このように<武田陽信>の実像を求めて資料を探したが<武田陽信>の姿はさっぱり見えない。
私はその理由を次のように考える。
1.「オーナーは金だけ出して口を出さないのがよい」とする美学が一部にあり、この当時にはその気風が現在より強かったかもしれない。
2.レース直後の70年1月草月流に脱税容疑の査察が入り武田は渦中の人となった。スキャンダルだけに本人もマスコミも露出を控えたのかもしれない。
3.武田自身が出しゃばりでなかった?
4.大儀見薫の性格?
  記事全体を通して大儀見薫の存在ばかり大きく出て、オーナー武田の影が薄い。これは大儀見の性格によるのではないか?
  大儀見氏は豊富な知識経験を生かして長らくNORC(日本外洋帆走協会)の各種委員会において指導的立場を果たした。シドニーホバートでの21位、<波切大王>によるメルボルン大阪ダブルハンド優勝など実績も残している。ヨット界の功労者である。しかし非常に癖の強い人物だったようだ。
  詳しくは知らないが氏はリーダーズダイジェスト日本社のオーナー一族であった。戦後の一時期一般人には入手出来ないほど人気のあった雑誌である。その最後の編集長塩谷紘氏が「リーダイの死 最後の編集長のレクイエム」において経営陣に痛烈な批判を残しているという。<雑誌出版社でありながら本業に力が入らず社員の士気が低く、そのくせ外資系会社の給与体系で高コスト体質。まさに潰つぶれるべくして潰れたともいえる>

  私は出光在籍時一度大儀見氏の訪問を受けたことがある。「ポーランドで安い帆船を見つけた。絶対に安い。出光も一口乗ってくれないか。」多分現在の<海星>である。私にはなにか儲け話を持ち込まれたように聞こえた。
  NORC副会長だった大儀見氏がどうして協会から消えたのか私は知らない。

日本セーリング連盟(JSAF JYANORCが合併)のボード「日本ヨット界の歴史」には、スキッパー大儀見薫ではなくオーナー武田陽信で記録が残る。


<1969年 シドニーホバートレースに武田陽信氏の<バーゴ>が参加>

2007年7月


     
2010年のレース風景

 

 

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