クルー契約書試論
(やや古いレポートですが再録します。長文)
先頃、「たか号」裁判が和解で決着しました。ご承知のようにこの裁判はグアム・レースで転覆沈没して死亡した「たか号」乗組員の一部の家族が、「たか号」のオーナーの遺族およびNORC(日本外洋帆走協会)を訴えたものです。艇の安全性の不備、整備の不適、荒天下におけるレース実施の責任等を問うています。
NORCは当然のことながら艇の安全、天候の判断、レース参加の決定は一切船長責任であるとして全面的に反論し、本格的に裁判に取り組みました。会員も年会費に上乗せして裁判対策費を納付しました。結果として昨年末、裁判所の勧告により400万円の支払いで和解決着しました。NORCは勝訴としています。
NORCの反論は機関誌「Offshore」に経過が掲載されていたのである程度承知していますが、一方のクルーが船長責任、オーナー責任を問うている方はどうなったのか、いまいちよく判りません。フォローが必要です。
実際問題として我々ヨット乗りとしては、クルーから事故責任を追及され訴訟を起こされることの方が大問題です。喜びも苦しみも共に分かち合うべき一つ舟のクルー仲間が互いに裁判で争うなど、耐え難い事態です。そんなことなら一緒に乗るべきではない。
この提訴があった時(93年)、当時の石原慎太郎NORC会長がまさに我々の心情を格調高く吐露してくれました。
しかし現実は現実です。船遊びの世界にも「クルーとの契約」の必要が論じられるようになってきました。その「クルー契約書」について少し考えてみました。(98/1/23 黒潮丸)
1、勇者たちの尊厳のために---石原慎太郎
offshore誌93年10月号
...前略...
なによりの悲劇は、世間はむべなるかなと思うかもしれぬ遺族たちの提訴に、実は誰よりも一番不本意を感じ、それをもたらした食い違いを歎き、恥ずかしく思っているのが、他ならぬあの遭難で海に死んだ者たち、遭難者自身であるということに違いない。
・・・略・・・
参加する船がいかに数多くとも勝者はただ一人という、ほとんど無償に近いオーシャンレースに私達があえて出かけてゆくのは、自分という人間の実在を自らに向かって証明するためであり、そこでかち得る高揚と満足充実をいかなる肉親にも与えることなど出来はしない。
彼を愛する者たちにできるのはただ、彼らが海で味わう充足への共感でしかないが、その限りでこそ孤独な行為者である彼らもまたけっして孤独ではないといえるのに。
・・・略・・・
死者たちの勇気ある者としての栄光と尊厳を、一体誰が金銭をもって計量出来るのだろうか。死者はもうけっして蘇りはしない。なのに、なおまた彼らから一体何を奪おうとするのだろうか。
我々はなにゆえに彼らを愛したかを、もう一度自らに問いなおすべきに違いない。死者をやすらかに眠らせるためにも。
2、クルー契約書
感傷は別にして、海外ではクルーと契約を結ぶオーナーが増えているようです。
しばらく前の米-クルージング・ワールド誌に、「クルー契約書」のサンプルが出ていたので紹介します。
まず冒頭に「カップルで出かけるのが一番だ」と書いています。他人をクルーとして出かけるのは厄介だというのです。それでもクルーを乗せる場合の注意事項がいろいろ書いてあって、そして契約書の様式が出ています。レースやショートクルーズではなく、数ヵ月以上にわたるロングクルーズが対象です。
クルー契約書 ヨット「マンダラ」号
出発地 *** 目的地 *** 日付 ***
「趣旨」
この契約は航海中の船上において発生するかもしれない諸問題に対して、スキッパー/オーナーとクルーの双方を守るものである。
私は出発前にこの契約書を弁護士に預けておく。貴君もそうしたらどうか。
スキッパーに万一の事態が発生した時の用意に、詳細な指示をチャートテーブルに入れておく。
マンダラ号においてはクルーは同等に扱われ、意思決定についても相談される、ただし貴君はすすんで仕事を受け持ち、困難や危険を分担しなければならない。
この契約により、貴君はこの航海に参加する貴君の意思決定に自ら全責任を負わなければならない。
貴君は航海の途中で発生するかもしれないいかなる事態も当然受け入れることに同意した。
スキッパーは艇が目的の航海の航海のために充分に整備され、充分に乗りこなせることを表明し、貴君はそれを確認して同意した。
この契約に記載された以外の約束は存在しない。
「スキッパーのこと」
氏名、国籍、生年月日、住所・・・(パスポート記載事項)
貴君は私が船長であることを理解し、同意し、法に背かない限りにおいて私の指示に従わなければならない。
「クルーのこと」
氏名、国籍、生年月日、住所・・・(パスポート記載事項)
写真2枚。
近親者の氏名、住所、電話。
「薬のこと」
艇には薬品箱と無線は揃っているが、航海中の薬品とか健康の問題について貴君は自ら責任を負う。アレルギーその他特別のことがあれば必ず船長に知らせておくべきである。
「船酔いについて」-略
「食事について」
特別の嗜好が有る場合は、ここに記述のこと。
「ビザと帰国費用」
外国に入国する時、ビザおよび帰国費用を所持していることを証明しなければならないことがある。これは貴君の責任である。
「メンテナンスの仕事」
クルージング艇を安全に航海出来る状態に維持するためには、多くの仕事があり、船上の全員が受け持たなければならない。1日に30分プラス1週間に半日 はその仕事をしてもらいたい。これは航海のための職務分担とは別である。
「費用」
貴君は船上における君自身の費用の負担をすることとする。そのためにあらゆる支出はノートに記録することとする。
艇のための支出は一切貴君に負担させることはしない。
「約束」
-一部略-
ドラッグや武器の持ち込み禁止。
外国に入国するに際しての費用その他はすべて貴君の負担とする。
船上においてはあらゆる仕事を共に分担し、艇を安全に航行させるための指示には必ず従う。
「署名」
スキッパー 自筆署名 クルー 自筆署名
日付 **** 場所 ****
以上・黒潮丸
3、同意書
次に、私がアラスカからカナダまでのクルージングに参加した際提出を求められた書類の実例を挙げます。法的にはもっと厳密な訳語が必要なのでしょうが、とりあえず概訳です。
「危険の前提、およびお互いに免責を保証することについての同意書」
この同意書に署名することにより署名者は、OCCの提供するクルーズにおいていかなる理由であれ発生するかもしれないあらゆる負傷、事故、病気、死亡、損害、損失について、 OCC、その役員、士官、雇用人、代理人に対する損害賠償請求権を放棄する。
【危険の前提】
この航海は危険な、また冒険的な活動を伴う。かって同じような航海において参加者が死亡したことがある。船は何かに衝突し瞬時に沈むことがあり得る。船上では火災、爆発の危険がある。装備の不具合や誤操作は多くの船員を不具にしてきた。多くの者が座礁したり沈没したりして溺死した。貴君は海中に転落するかもしれないし、救助されないかもしれない。貴君は病気になるかもしれず、死ぬまでに医療治療を受けられないかもしれない。これらはすべてこの航海において発生する可能性があり、熟慮すべきである。
参加者署名
署名者は、精神的にも肉体的にも適合し能力があり、この危険で冒険的な活動にいかなる制限もつけず自ら進んで参加し、あらゆる危険を承知していることを認める。
参加者署名
【免責】
OCCが私にこの航海への参加を認めたことに鑑み、私(下記署名人)は航海中に発生するかもしれないあらゆる責任について、OCC、その役員、士官、雇用人、代理人を免責する。この免責は、航海中に発生するかもしれない負傷、事故、死亡、損害の全てについて私、あるいは相続人、遺言執行人、管財人がOCCに対して要求するであろう一切の責任を免責するものである。
参加者署名
【規則】
私は航海中、船長が定めた規則を遵守し尊重することを表明する。また私の言動、身体の状態が航海あるいは他の乗組員の妨げになると判断された場合、船長は私の下船を命じる権利を有することを認める。
参加者署名
---以下略---
日付
参加者署名
保証人署名(僕の場合、妻が署名しました)
(注:この航海では損害保険も医療保険も参加者が加入することになっており、主催者側は医療費等も一切負担しないことになっていた。)
4、登山における契約
航海におけるクルー契約について考えていて、登山の場合はどうなっているのだろうかと思い至りました。
登山ではとにかく足で歩くのだから、皆が生命を託す船というものがない。だからオーナー責任は存在しないのかもしれない。しかしパーテイで登山した時のリーダーの責任はどうなっているのだろうか。保険は各自で入るのだろうか。
僕は登山はまったく門外漢なので判らないことばかりです。どうか識者のご意見をお寄せ下さい。お願いします。
ところで最近流行りの公募登山、参加メンバーを公募してパーテイを組む公募登山、これは難しい問題がありそうです。調べてみることにしました。
あれこれ考えましたが僕のまわりに山の専門家はまったく居らず、エベレスト公募登山の内容を知ることは出来ませんでした。それで、エベレストとはいかないまでも旅行社で募っているトレッキングツアーのカタロブを取り寄せてみました。初めて登山の旅行カタログを見て、どれもこれもパンフレットの立派なのに驚きました。とてもヨットレース観戦ツアーの比ではありません。需要量が桁違いに多いようです。中でアトラス・トレック社の内容が最も本格登山に近い企画が多く含まれていました。同社の「世界の名峰登頂シリーズ−設定ツアー一覧表」によると、4000メートルから6000メートル超の山々が並んでいます。さすがに8000メートルはありませんが。
同社はコースを5種類に分類しています。
1、一般サミット キリマンジャロ等
2、アルプス マッターホルン等
3、ニュージーランド名峰 マウントクック等
4、本格的高峰登山
5、ゆったり本格的高峰登山旅行の契約約款は旅行業者の通常の規定様式のようですが、ちょっと違うところだけ抜いてみます。
・4000メートル以上の高所宿泊ツアーでは健康診断書の提出を求める。
・ピッケル等登山用具を必要とする、あるいは特殊地域へのツアーでは、別に特殊旅行参加に関する約定書を提出させる。
・危険地域旅行の割増保険加入
・山歴書(これまでの登山経験)の提出
・登山中止については、悪天候等の他に
客の身体の具合が悪くなった時
時間的に無理になった時
技術レベルの問題ある時
には、それが一人でもあったらパーテイ全体の登頂を取り止める。
・判断はツアーリーダー、登山ガイドが行なう。
ざっと見ても、危険を予想してその責任をあらかじめ決めておくというようなギスギスした感じはありません。議論の発端となった「クルー契約」を締結して弁護士に預けておくような海の世界とは大分感じが違います。
山の世界ではそれほど自己責任のルールが徹底しているのでしょうか。
それとも皆がそれぞれの足で地面を歩く山の世界と、皆が自分の足を船の上に預けなければならない海の世界の違いなのでしょうか。
5、特別約定書
アトラス・トレック社の特別約定書を入手しました。同社ではこれを「特殊旅行参加に関する約定書」として捺印、提出させています。
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ピッケル・アイゼン・ロープ等の登山用具を必要とする登山やトレックに参加のお客さま、高齢者・年少者や一部特殊地域へのツアーご参加のお客さまには、特殊旅行参加に関する約定書を提出して頂きます。
「旅行参加に関する約定書」
年 月 日
参加旅行名
標記の旅行に関して、わたしは旅行条件および貴社提示の旅行業約款、下記の付帯条件を理解し、了承のうえ、これに従って参加することをお約束いたします。
保証人は、旅行参加者本人が旅行条件および貴社提示の旅行約款、下記の付帯条件を理解し、了承して標記の旅行に参加することに同意し、旅行参加者本人が貴社に対して負担すべき債務が生じた場合にはそれを保証することをお約束いたします。
旅行参加者本人氏名:印 住所:電話
保証人氏名:印 住所:電話 参加者本人との続柄
「旅行参加に際しての付帯条件」
1、旅行業法、旅行業約款にもとづき、私は各項目事由について生じる不測の事故、災害に関して貴社に対して一切の保証、賠償の請求をいたしません。
主催者の関与しえない天災、天候等による不可抗力の災害
主催者の故意、過失に起因しない事故
2、行動の安全を最優先と考え、ガイドおよびツアーリーダーの指示、判断、決定に従います。またこれらの指示、決定により予定の旅行が遂行出来なかった場合でも、貴社に対して一切の保証、賠償の請求を致しません。
3、一般公募および旅行の特殊性を考慮し、パーテイの和を重視し、独善的な行動は慎むことをお約束します。
4、目標地域の天候やルートの状態によっては、ガイドやツアーリーダーの判断により、当初の目的が達せられないまま行動を中止したり、場合によっては目標を変更することに同意し、これに従うことをお約束します。
5、旅行参加者が疾病、傷害、その他の理由で旅行継続が無理と本人、またはガイド、ツアーリーダーが判断し必要な措置をとること、場合によっては途中で下山することを了承し、その際はガイド、ツアーリーダー、現地スタッフの指示に従うことをお約束します。
6、前項の措置に要した費用、それらに付随する費用は旅行参加者の個人負担となることを了承いたします。
7、天災、地変、天候、疾病、傷害、その他の事由により現地スタッフまたはガイド、ツアーリーダーが必要と認めて使用したヘリコプター等の特殊交通機関の費用とそれに付随する費用は、旅行参加者の個人負担となることを了承いたします。
以上
6、その他
(1)ケンウッド・カップ参加クルーの念書
333さんからケンウッド・カップ・レース参加クルーの念書を見せて頂きました。
これは自費クルーを募ってチームを結成してレース参加したケースです。プライベートなものなのでここで公表は出来ませんが、とても参考になりました。日本ではこれだけ取り決めるのも大変なことですが、ここまできたかの思いもあります。とにかく実際の当事者が捺印した書類ですから重みがあります。
(2)サインの有効性
Tさんから「オーナーがクルーにどんな書類にサインさせても有効ではないのではないか」とのご指摘がありました。
たしかに公序良俗に反する条文にサインを求めても有効たりえないことは分かります。しかし「たか号」の裁判の原告は死んだ人達の家族でした。
NORCの反論も、そして当然我々も、訴訟を起こすなど決して死んだ人達の本意ではないと信じています。
乗艇した本人の意思を示すためにも、クルー契約は必要のようです。
Subject: RE: クルー契約と登山契約
小生は、学生と一緒に登山する場合個人的にはスポーツ保険に入っていますが、グループで連れていく場合の責任は特に今まで考えていません。考えなくてはいけないかも知れない。
大学で海外に学生を連れていく場合は、大学で旅行傷害保険をかけ、学生からは引率者の指導に従うこと、保護者からは保険の範囲を超えて損害の補償を追求しない念書を取っています。まあ、それでも訴訟の発生を100%くい止めることは無理でしょうが。引率教員はやはりリスクを負いますね。
竹内一夫(TK大教授)